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Zoomを使ったベストな講義科目のやり方教えます

大学は設備産業だったのか

今、Zoomがあって本当に良かった。
ここ数か月、オンラインで授業をせざるを得なくなって、いろんなシステムを試行錯誤した結果の素直な感想である。Zoomビデオコミュニケーションズ社の、Zoom Meetingsというアプリケーションのことだ。

今更だが、Zoomのサービスは2013年1月にリリースされ、2015年2月の時点で、それを利用している参加者の数は4,000万人と言われていた。この辺りの事情は、Wikipediaに詳しい。

2020年3月のある日、Zoomアプリは343,000回ダウンロードされ、そのうち約18%が米国からのダウンロードであった。1日の平均ユーザー数は、2019年12月の約1,000万人から2020年3月には約2億人に増加した。

簡単に言えば、毎日2億人が、Zoomによって救われているわけだ。

人が動かない時代になって、何かの設備、施設を使った事業モデルが、基本的には成立しなくなった、ここは試験に出ます。設備費用を取っていたビジネスモデルは、もう終わる。
大学でも学生さんが設備費を返せって言いだしてる。図書館とか教室とか、そういう設備費だが、まぁわかる、使ってないんだしね。うちも校舎には、原則学生さんは立ち入れない。立ち入れない場所の金は取れないだろう。

法政大学は、流石に素晴らしいアナウンスを早々としていた。

本学ではこれまでかなり長期にわたってオンライン・オンデマンド教育についての準備・試行を始めておりました。なぜなら、大教室授業等をそちらに移行することにより少人数教育を充実させ、オンデマンドで受講した内容を議論で深める(反転授業)など、オンライン・オンデマンド化が、今後の教育に果たす役割は多大だからです。オンライン・オンデマンド授業が対面授業、とりわけ大教室授業に劣るとは考えておりません。むしろ個々の学生が課題に応じて複数回のレポート等を蓄積していく方法は、学生・教員双方にとって、今後のより充実した授業方法に向かう、重要な体験になると考えております。

だけど、学費は返還できないんだろうね。返還には応じないという理由は、ちょっと弱い気もしてる。

ともあれ、どの大学も、学費は設備費用じゃなく、質の高い学びのために必要なんだって、なぜ言えないんだろ。
見るともなく世間のオンライン授業を見ると、確かに学費に見合うような内容じゃないかもしれない。PDFの資料を渡してレポートを書かせるものとか、オンデマンドと称して、パワポで作ったような動画や似非Youtuberみたいな映像を流して、レポートを書かせるものとか…。
今の授業は、って言うより、大学の授業はずっと、学費には見合っていなかった。だから設備費しか議論されていないんじゃないか。
結局、学費が設備費用ならば、大学は、遊園地と変わらない。おそらく、元の大学の形に戻ることを待ってるんじゃないか、どの大学も。

「本学の教員は、ネットでも最高の授業をする」って4月に風呂敷広げた某大学学部長がいたけど、そんなのやっても無いのに、よく言えるねぇというのが正直なところ。誰もが4月は不安だった。
3か月も毎週何コマもZoomで授業してみて、4月の不安は全部吹き飛んだ。今なら「Zoomで最高の授業をやる!」って、居直りでもなんでもなく、宣言できる

残念ながら、オンラインでここまで深い授業ができるんなら、もう元の校舎には戻らないだろう。
だらだら大教室に向かって、たっぷり時間かけて、プロジェクターの準備して、資料と出席カードを配布して、その間に喧騒状態になった大教室をなだめたりすかしたり、時には怒ったりしてコントロールしつつ、授業に入ると、真っ先に寝るやつ、おしゃべりが止まらないグループ、スマホから顔上げないやつ、大教室の最後方から資料が足りないだの出席カードが足りないだの。教室の空調が暑いだの寒いだの、マイクの音量が小さいだの。

自分は、相当授業は上手いと思っている。元々プレゼンテーションには自信があるし、ファシリテートの能力も格好あると思っている。授業は崩壊してはいないし、これでもまともな教室の方だと思う。日本の大学の、文科系の大教室って、多かれ少なかれこんなもんだろう。知的生産性の低さは、大したものだ。

そもそも、教室設備自体がデジタルに対応していない。本務校で言えば、ほぼどの教室も、プロジェクターのためのスクリーンを降ろすと、黒板が隠れてしまう。そのため、資料の提示と板書は共存できない。仕方なく、Windowsのメモ帳アプリのフォントを大きくして、板書は手書きではなく、キーボード入力をすることにした。図もペイントとかPPTを使ってその場で描画することにしたが、前もって作った方が早い。ただ図のリアルタイムな作成は、パフォーマンスとしては、それなりのインパクトはあるみたい。こうやって、必要性を求めた結果が、教育コンテンツのデジタル化だった。
しかしその状態で空調を入れると、巻き起こる風でスクリーンが微妙に揺れるので、「スクリーンの使用中は空調の使用禁止」という貼り紙には笑った。ポンコツ設備じゃねぇか。

ところで、メモ帳の「.LOG」、知ってる?、板書にメモ帳を使う理由はそれだけ。この機能がある限り、どんな文書作成ソフトも、メモ帳を超えられない。

教材や資料をデジタル化するのはいいのだが、相変わらず学生たちは紙での資料の配布を求める。学内の教育支援システムやFacebookグループなどで、PPTの抜粋や配布資料を公開しても、プリントアウトして紙で持参してくる。そして試験が終わった後は、それらの資料を纏めてゴミ箱に捨てて終わり。

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これはショックだった、試験期間にこういう様子はたくさん目撃する。授業の受け方、学びのスタイルにはいろいろあるからそこはあえて何も言わないが、捨てることは無いじゃないか、それも教室のすぐそばにあるごみ箱に…。
この驚くほどの知的生産性の低さと、蓄積の軽視が、文科系の教室の実態であることは間違いない。本務校だけではなく、非常勤先でもしばしば目にする光景ではある。

大学の方でも、ガス抜きのように学生アンケートを取ったりするが、元々バイアスが掛かったアンケートが多いし、アンケートってそういうものだ、ネガティブオピニオンは、3倍ほど声が高いのが常だ。しかし教務委員会では、この声高なアンケート結果を、全ての学生の反応のように議論する。そもそも、全ての履修者に高評価をもらうことは最初から考えても無理だろう。結局、価値観は人それぞれだし、授業への期待もまちまちだろう。
大学の教室で行われる授業は、実はもう何も機能していなかったんだ。設備としての大学はもう終わった。

電通が、2020年7月15日に発表した「新型XXウイルス日米定点生活者意識調査第5回目」が興味深い。一か所伏字にしたが、そうでないと記事の上に「厚生労働省のサイトを見ろ」的な記載が出て来るので。
それによれば、「普通の生活に戻れると思う時期」は、日本のデータで言えば、年末年始、来年以降を合わせて57%、通常の生活にはもう戻らないというのは13%もいる。多くの人が、まだまだこういう生活の継続を覚悟している様子が見て取れる。
さらに「出来なくて恋しいこと」という問いに対しては、一位が「旅行に行くこと」で47%、以下「お出かけ」や「外食」などが続くが、「学校に行くこと」は2%でしかなかったりする。もしかすると学生の母数が少ないのかもしれないが。確かに、周りの学生も4月に比べると、対面授業をしたいとは、余り言わなくなったような気がする。

ここでは、あの感染症がどういうものかということは置いておくし、今年の後半から元の姿に戻るだろうという考え方も採用はしない。何より、人類が全世界である時点を境に、違う生き方を始めた、人が移動しなくなり、人が集まらなくなり、都市を離れていく。そこだけに注目したい。

こと、大学で言えば、Zoomでここまで深い学びが出来るんなら、もう校舎は要らない、教室もいらない。そこではずっと、低いレベルの学びしかできなかったから。
コロナに対して、少なくともオンラインでの教育は間に合ったと思うが、それはZoomのおかげだとしか言えないと思う。決して大げさではなく、少なくとも大学の学びはそうとしか言えないだろう。

但し、授業と会議は違う

いろいろなテレビ会議システムがあるし、全てを使ったわけじゃないが、個人的にはZoomがあれば、もう敢えて他のシステムを考える必要は無いと思っている。まず操作中に何らかのエラーでトラブルになることも少ないし、完成度は、この段階ではベストと言えるほどだろう。仕様もこれで十分だし、これ以上の機能や仕様は不要だ。そもそも、教える側も教わる側も使いこなせないだろう。

Zoomを会議ツールとして使っている人は多いだろう。Zoom飲みとかも盛んみたいだけど、それらと授業は違う。会議の派生として授業を捉えると、いろいろ欠点も見えて来るし、多分大したツールとは思えないだろう。
実際、身の回りでもZoomでの授業を「垂れ流し」と言い切った教員もいる。確かに、授業をテレビ会議でやろうとすると、垂れ流し状態になるだろう。だから、そういうものじゃないんだって。
もともと、Zoomは、教室を想定して仕様の検討がなされたわけではないと思っている。

コミュニケーションのモデルを考えてみる。複数の対話者が対等にやり取りをするような構造、これを「打ち合わせモデル」と呼ぶが、おそらくZoomが当初想定していたのは、こういう構造のコミュニケーションではないだろうか。Zoom飲みなどは、まさにこれだろう。ホストは、Zoomアプリの立ち上げと終了を担当する、事務のような存在となる。飲み会で言えば、幹事。これは仕様との親和性も高いし、それほど苦労せずに、コミュニケーションをZoomに移行できる。

打ち合わせ

ところが、会議となると話は違ってくる。我々の世界で言えば、数多ある委員会や教授会が典型ではあるが、一人の議長、委員長が進行を司る、1対多のコミュニケーションである。英語ではどちらもmeetingなのだが、コミュニケーションとしては相当異なっている。誰かが進行を制御するわけで、いわば集中型コミュニケーションである。その意味で言えば、打ち合わせモデルは、分散型コミュニケーションと言える。

これを「会議モデル」と呼ぶが、会議における司会者と、ホストが等しいと考えているのが、Zoomの想定だろう。ウェビナー(Webinar)と呼んでいる形式のもので、言うまでもなく、ウェブ(Web) とセミナー(Seminar)、の造語である。元々動画を使ったオンデマンドセミナーをインターネット上で実施することを、こう称していたらしい。
恐らく授業をこう位置付けて、この会議モデルで展開している例が多いのではないだろうか。

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個人制作によるYoutube動画の多くが、この構造だろう。その代表が、N国党の立花氏だろう。内容はともかく、彼の話は巧みで、前もってキーワードなどが書かれたホワイトボードを使いながら進行して行く。恐らく彼は、ネットではなくても巧みなプレゼンテーションを行うだろうし、もし授業を担当したとしたら、人気授業になるのではないだろうか。

恐らく、殆どのZoomの授業は、こうしいった構造で展開されていると思われる。実際、ある同僚教員がオンライン授業でホワイトボードの内容が上手く映らないからどうしたらいいか、などという書き込みをイントラの掲示板にしていた。このモデルでオンライン授業を行うのは、それこそ今まで教室で実施していた授業のオンライン版として、実施するのは容易だろう。途中からそのまま対面授業にも移行できるだろうし、その逆も可能だろう。教員にとっては、一番自然な形だろうと思われる。
ただ、これだとZoomのメリットを享受しているとは言い難いし、何より、対面授業のサブセットでしかないということがとても気になるのである。要するに無観客授業でしかない。

教員側も、授業が「サブセット」であることを感じているはずで、結局それが異常な量の課題に繋がっていると言えるのではないかと思っている。大した授業が出来ていないということの後ろめたさなんじゃないかな。

ある大学の1年生のツィートが考えさせられた。

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彼らは「可哀想な1年生」として扱われているんだ。でも、なんで可哀想なんだろう?。
確かに大学生の代名詞のような、サークルとか合コンとかバイトとか、そういった類のことは、自由にはできないんだろうけど、それは皆同じ。社会人だって、プライベートの制限で言えば、やっぱり可哀想な日々を送っている。結局、可哀想な理由の大半は授業にあるんじゃないのか?
レベルが低いと教員自身が思っているような授業を受けているということが、大きな理由だと思えるのだ。

オンラインでしかできない授業、高い付加価値を持って教育効果の高い授業を、教員がやれば、決して「可哀想」とは言われないだろう。逆に、初めて、完全にオンライン、デジタルで授業を受けた世代として、後で高く評価されるのではないだろうか。少なくとも、通勤、通学から授業開始に至るまで、授業中の諸々を全部抜いて、授業を情報伝達行為としてのみ考えることが出来る。
要するに、Zoomでしか出来ない形の授業モデルが必要なのだ。

Zoomのカメラと音声の設定

1対多での授業にZoomを用いる場合、若干の環境設定が必要だが、ちょっとしたノウハウに触れておく。主に、映像と音声、通信環境に関して、若干の注意が必要である。

授業では顔出しが嫌な学生も多いだろう。別に女子大が云々ではなく、誰でも私生活の空間を、授業とは言え、パブリックな場に晒すのは嫌だろう。実際、オンライン会議では、顔が見えることで顔にしか注意が向かなくなるという現象もあるとの指摘もある。
自分自身も、書斎と言うか自室が本とCDで埋もれているので、仮想画面を使っている。さらにPCの埋め込みカメラではなく、Webカメラを使って逆光で顔がはっきり見えないようにしている。話者の姿が見えないのは、やはりコミュニケーションとしては不完全になると思えるのである。

仮想画像よりも、動画を使うと、少なくとも動きがあるので、授業時にでも余り不自然さを感じないだろう。最近では、こうした仮想画像用に作られた短めの動画が多く公開されており、例えば以下のような動画と逆光の顔写真を組み合わせると、その場にいるように見えるかもしれない。

実際のイメージはこういった感じになる。なかなか、悪くないでしょう。
生々しく顔が映るより、こういった感じの方が、学生側も気楽に授業が受けれる気がする。ネット通して、眼を見るのはちょっと怖い。

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音声の設定も重要である。最初に、打ち合わせや会議ではなく、授業でZoomを使うと、違和感があるはずだ。会議の場合、誰かが常に話しているはずで、全員が黙っているということは余りない。しかし授業では、原則として講師が喋らない限り、誰もしゃべらない。だから、講義形式の授業でZoomを使うと、特に相手が顔出ししていない場合、誰かが聞いているかわからない状態になり、独り言を言っているような感覚に陥ることがある。
特に通信状態によっては聞き取れなかったりすることもあるので、もう一つ、モニターするために別の機器でゲストとしてログオンしておくと有効だろう。その場合、同じ部屋にあるとしても、ゲストユーザはZoomのサーバー側で処理されて届くため、映像や音声のタイムラグがあるが、喋った少し後にモニター側から声が聞こえてくるのには、慣れが必要である。

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Zoomの場合、ホスト側の通信状態と、ゲスト側の通信状態の両者が通信品質に関わってくるため、正直言えば、授業時の通信品質に関しては、慣れないと対応が大変である。同じ通信環境のゲストでモニターしておけば、少なくともホスト側の通信状態は把握できるので、このモニターを導入することで、音声が聞こえないとか途切れるといったクレームは激減した。
ただ、こういった細かい話は、正直どうでもいいレベルのものだと考えている。問題は、授業のコンテンツそのものにある。

Zoomでしか出来ない授業を探る

本題になるが、対面授業の代わりにオンライン授業をやらざるを得ないというスタンスを一度捨てるべきなのだ。要するに、オンライン授業、Zoomでしか出来ない、今まで出来なかった授業をやる、そうでなければ、大学は学費を返還しなければダメだろう。

そのために、Zoomの仕様で最も重要なのは、画面共有の機能だと断言してしまおう。結論的に言えば、この機能はオンライン授業でしか使えないので、この機能を最大限に利用して授業を展開するのが重要なのだ。
Zoomで言えば、ディスクトップを中心に、ウィンドウ単位の共有と、ホワイトボード機能やiPhoneなどが使える。要するに、自分のパソコンの見える部分を受講者に晒してしまうわけだ。

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今までの授業でも、プロジェクターにPC画面を投影し、受講生にディスクトップを提示していたので、画面共有が大きな意味を持つというのはわかりにくいかもしれない。
授業の受け手もPCを使っているということが重要なのだ。

但し、こういう構造ではない。これは、受け手の側のツールがディジタルになっただけの会議モデルでしかない。

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画面共有を使ったオンライン授業は、Zoomやネットワークがメディアになるわけではなく、PCそのものがメディアになるということがポイントである。

情報メディアの持つ重要な性質に、透過性(トランスペアレンシー)がある。情報メディアは、本質的に、その姿を消していくというもので、マスコミではそれを巧みに利用している。

例えば、メディア学の世界ではしばしば扱われる事例に、雪印乳業の記者会見の事例がある。記者会見の席で当時の社長が、「私は寝ていない」と言い放った伝説的な話で、キャプチャを見て欲しい。画面にはカメラが2台(B,C)映っているが、もう一台社長と会話をしている側にもカメラAがある。社長は、あくまでもカメラを持った側に言ってるにしか過ぎないのだが、これを見ている視聴者にとっては、あたかも自分に向かって言われているように見えて、世論の反発が、会社の消滅にまで繋がって行った事件だった。

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このように、メディアは姿を透明にすることで、あたかもその場にいるように思わせることが出来る。画面共有は、PCをメディアにしてこの「透過性」を取り込むべきなのだ。

その場合、コミュニケーションのモデルは、以下のような図になる。相手が何百人でも、あたかも1台のパソコンを隣で覗き込んでいるようなイメージである。これはあたかも、芸事の稽古のようなものなので、「お稽古モデル」とでも呼ぼう。

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画面共有のモデルは、PC間の通信ではなく、実は仮想的に1台のPCを共有するような、こういった構造なのである。コミュニケーションの媒介をするものが、通信ではなく、PCそのものだと考える必要がある。

教える側の使っている資料や素材を、全てホストのPCの上でゲストと一緒に見たり書き込んだりすることができることになる。これは、大学の授業では今まであり得なかった、革命的なものだと感じている。
こうなると、授業は伝達行為ではなく、あたかも一緒に一つのドキュメントを作り上げていく行為に変化して行くことになる。

そもそも教員にとって、授業とはどういう作業なのだろうか。恐らく、旧来は、一冊の教科書を解読、解説していく作業として構成している教員が殆どだろう。しかし、昨今のアクティブラーニングの枠で考えると、授業は、15回の日程を通して、受講生と1冊の本を書きあげる作業だと考えることができるようになってくる。
学問の対象にもよるだろうが、おそらくこうした時代の動きが速い状況では、学びの内容は確定したものではなく、受講生との共同作業によって創造していく作業だと考えざるを得ないだろう。こうした授業のあり方に、この「お稽古モデル」は非常に親和性が高いのである。

これは、オンラインの画面共有でしかできない授業形態だろう。オンライン授業が想像以上に効果が高かったのは、こうしたコミュニケーションモデルを取り込めるか否かによるのではないだろうか。

最低限のPCスキルは必要だけど

実は、文系の学生には、そして多くの教員には、この画面共有がパソコン上で何が行われているのかを理解していないケースが多いように思える。それでは、碌な授業はできないだろうな。

まず、パソコンを共有するということは、ホストの操作スキル自体が完全に見えてしまうことになる。画面に見える部分ではあるが、Zoomの操作以前に、パソコンの操作スキルが必要とされるのは致し方ないだろう。
実際に授業のホストになるだけでなく、受講する場合も、Windowsパソコンのタスクスイッチとスクリーンショットは最低限必要なスキルだと思う。実は、Alt+Tabを知らない教員が多いのに驚いたが、自分の周りだけだろうか。
デスクトップにたくさんのWindowを拡げて講義するなら、マウスで切り替えるより、タスクスイッチで一瞬にして切り替えるほうが、見ている側も快適なのは間違いがない。

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但し、Zoomの画面共有では、Zoom自体の操作メニューや、Windows固有の画面は表示されないことがある。例えばCtrl+Alt+Delの、優先度の高い割り込みキー操作の画面は表示されない。こうしたバックグラウンドのOSの操作は、受講生には見えないので、蔑ろにされがちだが、授業の進行を大きく左右するだろう。もしそれらを示す必要があるのならば、スクリーンショットを使う必要がある。
講義中に取ったスクリーンショットを貼り付けるのは、パワーポイントが最適だろう。ただし、スライドショー途中だと、出来ないので、実はパワーポイントはスライドショーを使わないようになった。

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画面共有では、ホストのコンピュータ上でパワーポイントを動かして、Zoomでスライドを受講者と共有することが多い。これも経験則だが、パワーポイントのスライドショーを動かすと、PCに大きな負荷を掛けてしまうことになり、通信の品質が落ちたりする。
また映像を使う場合など、ホスト側でアプリを切り替えるものかなりリスキーで、可能だったら、スライドに映像を埋め込んでしまったほうがいいかもしれない。これは人によって意見が違うが、タスクの切り替えは最低限に抑えたほうが、PCにも負荷を掛けないし、何より講義をしながらの操作が安全になる。

画面共有では、ディスク内のファイルを出来る限り見せないのがポイントである。多くの方は、ドキュメントというフォルダーに個人データを溜めていることが多いと思う。しかし過去この場所を狙うファイル交換のウィルスもあったし、思わぬ個人情報や秘密情報を開示してしまう可能性があるので。画面共有時は出来る限りファイルの操作は避けたほうがいいだろう。

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考えてみると、PCのディスクトップやディスクは、極めて個人性の強い場所なので、じっくり他人に見せるということは、まず無いだろう。であるがゆえに、オンラインでしか出来ないコミュニケーションなのは間違いないし、それを最大限に利用することで、オンラインでしかできない授業にもなる可能性もある。

DDDであること

そもそも画面共有が有効だったのは、こうしたコミュニケーションのモデルのほかに、デジタル世界で全部完結できるという点がも大きい。

オーディオの正解にSPARSコードというのがあり、録音、ミキシング、マスタリングが、アナログだったのかデジタルなのかが示されている。AAD、ADDなどのコードがそれで、順に、録音、ミキシング、マスタリングを指している。

これを授業で言えば、教材、教員側の提示、受講側の受信の3過程に分解できるだろう。教材は、未だに手描きだったり、雑誌や新聞をコピーして切り貼りをするA(アナログ)手法によるものも、まだ大学では多い。どの大学でも講師控室には、コピー機、印刷機が置いてあるが、スキャナーはまず置いてあるのは珍しい。
教育資料を学生に提示する場合、大学ではほとんどが紙に印刷をする。Aが多い。いくら教材をDで製作しても、その後のプロセスは、Aが続く。

そもそも日本の大学生は、授業時にPCは殆ど使わない。何かの信念のように、頑なに手書きでノートを取る。スライドを提示し、例えば今ではどこの大学にも必ずあるEMS(教育支援システム)で資料としてスライドやレジュメを配布しても、印刷して持ってくる。そこまでしない連中は、スマホで写真を撮る。「ここは大事です」とでも言おうものなら、記者会見のように撮影が始まる。ファイルを配っているのに…。スマホの中にある写真は、おそらく単なる思い出でしかなくて、機種変更のタイミングでこの世から消されてしまうだろう。少しだけ、学生に喧嘩売ってます。
つまり大学の授業は、教材、提示、受信は、AAAが未だに主流で、全てデジタルで資料を作ったとしても、DAAがせいぜいなのだ。

オンライン授業で、それが一気にひっくり返った。Dでなければオンライン教材にはならないし、提示もZoomならばDである。スキルの無い学生は、PCを見ながらメモを取っているようだが、3か月も授業を受けてみると、それが如何に無駄なことか気づくようだ。
画面をスマホで撮影していると言っていた学生もいたが、Fn+PrtScrは知らなかったそうだ。精度に不安はあるが、GoogleDocsの自動書き起こしを使うのもアリだろうし、学生の方でも授業を録画してしまえばいい。

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結局、デジタルの通信手段に頼るしかないわけなので、そこへのインプットもそこからのアウトプットも、デジタルにするしかないのだ。
デジタライゼーション、あるいはデジタルトランスフォーメーション(DX)が、期せずして実現されてしまった。あれだけ手書きのノートを書いていた学生が、全員PCやタブレットなど、デジタルメディアの前にいる。

Who led the digital transformation of your class?

もう最初からデジタルで思考し、デジタルで資料を作り、デジタルで配布するしかないだろう。

授業の本質は時間の共有

オンライン授業に移行するにあたって、おそらくどこの大学でもいくつかの選択肢を教員に示したはずだ。

オンデマンド型
リアルタイム型
資料配布型

見る限り、この3つの種類の授業形態がある。さすがに、レジュメや参考資料を学生に配布してレポートを書かせるという「資料配布型」の授業は、大学教育である必要はないだろう。相当数こうした授業があるようで、半期13回のうち、オンラインで対話したのが2回だけという授業などもあったようだ。そのために学費を払う価値は無いという意見には、反論することはできない。

そもそもオンラインのコミュニケーションは、時間と空間を超えるという利点がある。そのため、本来的に言えば、いつ、どこで授業を受けても構わないという、オンデマンド型は一見、最適な選択のように思える。

「大学辞めます」というTweetが一時バズったが、Netflix、Amazon prime、Spotify、そしてhuluが比較の対象になっている。オンデマンド形式は、これらと比較されてしまう。
そこらの教員が、にわかに作成した動画など、映像としては大したものではないはずだし、授業ほど、映像的には面白くないものなどないだろう。

本来大学が比較されるべきは、Udemyのような、オンラインのコースマーケットのようなサービスだろう。しかし、コース単位として見てしまえば、経済面でも大学のオンデマンド授業は、比較にはならないほど高価であって、そうなると、設備費用と学位の認定機能位しか、大学に価値は無くなって行く。
さもなければ、コンテンツそのものに、価値を与える必要がある。

授業が授業として価値を持つのは、教員と学生、受講生とが、時間を共有してリアルタイムにコミュニケーションができること、ここにこそ価値があると考えなければいけないだろう。
個々に特定の領域を深く研究し、成果を挙げている教員と一定の時間を共有することで、学びを深めることが出来ることが、授業の価値だと考えている。つまり、授業では、空間を超えて、ある特定の時間を共有できることが、実現されている必要がある。
要するにオンライン授業は、Zoomなどを使ったオンライン型をメインにすべきで、オンデマンドや資料提示型は、その支援でしかない

実を言えば、Zoomでは、リアルタイムの双方向コミュ二ケーションの機能は若干弱い、と言うと意外に思うだろうが、それは少なくとも1対多の授業においては、それが顕在化することが多い。
Zoom内では、あくまでZoom内での、対話ベースのコミュニケーションが想定されているため、例えば履修者がZoomに入れない場合には、機能しなくなる。

さらに発声以外のコミュニケーション手段としては、チャットしかない。
正直言えば、Zoom内のチャットは、講義をしながらケアするのは至難の業かもしれない。全員向けチャットか、参加者個々向けの2つがあり、直前のチャットによって、その設定が変わってしまう。これを細かくケアすることが出来ず、特定の人にしか送れなかったということも頻出した。
チャットは、メモ帳で書いて行った板書の共有に使うのが、一番適切かもしれない。

ホスト側の教員からではなく、ゲスト側からのコミュニケーションには、Zoomとは独立してチャネルを作っておく必要がある。LINEやメッセンジャーなどを使うという選択もあるが、画面共有をしている場合には、出来る限りパーソナルな情報を扱いたくないので、試行錯誤の末、匿名のコメントシステム「コメントスクリーン」を採用した。

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これはニコニコ動画などで見たことのあるような、画面にコメントを流す機能で、基本的には匿名で使える。これを全オンライン科目で導入したが、おそらく学生側でも賛否両論があるようだ。
確かに匿名なので、荒らしに近いコメントも時たま出て来る。非常勤先の初回の授業で、匿名コメントと勘違いして、Zoomのチャットで荒らしコメントを流してしまい、指摘したら逃亡して、速攻履修取り消しをした男子学生もいたな。

質問や意見などを、簡易に集めることが出来るので、授業では率先して利用したが、どのコメントを拾うかは、あくまでホスト次第だし、面白かったのは、ちょっとした言葉や内容に、多くの学生が次々に反応して行くことだった。
普段、教卓側にいると、学生達がどういう会話をしているのは全く分からない。実は関連する話題を掘り下げていたりすることもあったり、それはそれで、新しい発見だった。確かに、学生達は、教員が決めたことだけを考えていればいいと言うわけではないし、学生達が興味や関心を拡げていくことができれば、より深い学びにもなるだろう。
幸いと言うべきか、手元にPCもあるので、授業中に幾らでも内職や調べ物などもできるはずだ。

Zoomを通して、学びの時間を共有できるので、履修者が疑問を持ったことやわからなかったことなどを、共有することができれば、集団的な学びである、ソーシャル学習まではそんなに遠いいわけではない。
この「Comment Screen」は、学びのための問題提起を与えてくれるものとして捉えるといいだろう。さらに、Wikipediaに限られるが、検索履歴を共有することができる「WIKIHIKE」というアプリもある。

Zoomによって、一つの画面を共有することをベースにして、様々な形の学びのコミュニティが形成できる可能性が見えてきた。

溶け出す教室と学校

半期、Zoomで授業をやっていて、場所を超える受講を可能にしたことは実感することがしばしばあった。ある時、OFFにし忘れた学生のマイクから、駅のアナウンスが聞こえてきたことがあり、確かに「三宮方面」と聞こえた。どこにいても、時間を共有した学びができることは、決して悪いことではない。もう教室は、「溶け出して」しまっている。

午後4時半から始まる5限の授業に、過去には無かったような、多くの履修者がいたことも、驚くことの一つではあった。文科系女子大では、5限は、ある意味鬼門扱いされている。おそらく工学系の学生には想像できないと思うが、文科系の学生の学内の滞在時間は、驚くほど短い。
通称ゴールデンタイムという、13時過ぎからの3限の時間がピークで、どんどん学生の数は減って行く。午後6時半には閑散としたもので、特に後期は陽の落ちるのも早くなるせいか、5限の履修者は急激に減少する。
少人数でやりたい授業は、5限に回すことを薦められたりする。

こんな状況で、設備が使えないから学費を減額しろという要求もどうかとは思うが…。実は学校側にも問題がある。
自分の身の回りで言えば、不相応に大きな図書館と学食、購買に隣接したラウンジしか、学生が滞在する場所は無い。いわゆるアメニティスペースとか、おしゃべりと言う名前の議論をする場所とかが、殆ど存在しない。おそらくこれは、文系の小規模大学や女子大には共通する点だろう。要するに、大学から見れば、学生は教室で授業を受け、学食で食事し、ラウンジでお喋りし、気が向いたら図書館に寄る、そういう存在なのだろう。
ラウンジにホワイトボードを置くとか、もっと気軽にプロジェクトワークができる空間を用意してもいいと思う。
ある職員が「うちの学生はすぐ帰りますから」と言ったのを、10年以上経っても忘れられない。だから何も用意する必要が無いというわけではなく、だからこそ環境を整備して、シームレスに知的活動ができるような文化を育てるべきじゃないのか、当時そう反論した記憶があるが、顧みられることは無かったのは言うまでもない。当時研究室で試行を始めた、社会連携型のPBL学習で、グループワークを継続して行うための場所が確保できず、仕方なくFacebookなどSNSでプロジェクト学習の試行を始めることになった。

結局、学校という設備を使った学びは出来なくなり、教室は外に向かって溶け出していくことになった。その結果でもあると思うが、もう一つ、驚いたことがあった。
学生のレスポンスに、「お母さんと一緒に授業を受けています」というものが複数あったことだ。連休中の休日返上授業では、そこにお兄ちゃんが登場してきたり、別の大学のお友達がいたり、経営学を学んでいると称する彼氏が出てきたりする。

学費に基づいて開講している授業なので、保護者、保証人を排除することはできないだろうし、学生の意志なら、履修者以外の聴講も拒絶することはできない。拒絶したとしても、ネットワークの先にいる学生たちが、どこでどういう状況で授業を聴講しているかは、制限はできないから。
面白いので、隣のお母さんと一緒に考えるように課題を出したりしてみたが、それがよかったのかどうかはわからない。

ただ明らかなのは、ここでも教室が溶け出してしまい、家庭にも入り込んでいるということだろう。ごく当たり前のことだが、こうした状況では、曖昧な授業や質の低い授業は、もうできない。
うろ覚えの概念は、ネットワークを通して繋がっている多くの学生、受講者によって瞬時に検証される。これは紛れもない「ソーシャル学習」だろう。

教える側と教わる側の境界も溶けていく。
結局、設備を使った、マスレベルの集合教育は、限界だったのだろう。いや大学教育はそういうものだとみんな疑わなかった。正直に言えば、Zoomの画面共有で、そうしたことを思い知らされた。

可哀想な新入生に対して何も出来ないのは、教員としては、決して褒められた姿勢じゃゃないだろう。オンライン授業でしかできないことをやる、それがこの時代に「間に合った」教員のやるべきじゃないだろうか。
幸い、僕らは、教員として、学生として、保証人として、この時代に間に合ってしまったのだ。


※トップ画像は、「minko | にわ撮リスト(自称)」さんの授業をテーマにした写真をお借りしました。ありがとうございます。
教室でPCを使っている学生さんの写真で、今となっては、懐かしいとしか言えない様子です。果たして、大学生は、そして高齢者の教員は、教室に戻れるのでしょうか。




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