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蓮輪友子 Flickerから絵画を考える。

Statement
地下鉄でサッカーの応援帰りの4人組が酔っ払って歌を歌っていたのですが、思わず撮った動画を見返してみると、手振れで像が崩れた瞬間がある日の酔っ払った友人にそっくりでした。像が揺らめいて崩れた瞬間を描き、みる人の干渉によりどのようにもとらえる事の出来る絵を目指して制作しています。
#202   揺れる人物の像をもととした大小の絵を中心に展示。
#205   2010年から加筆を続けている光をイメージした絵の上に動画を照射して展示。

■解釈

撮影した映像をもとに絵の具でその軌跡を描く。
その説明として、壁に掛かった絵画に映像を照射し、ゆらぎを表現する装置をつくる。

壁にかかった絵は2010年から加筆続けている森の中の木の間から溢れる光を印象とするイメージで、照射される映像は、植物をモチーフとした3パターン各60秒ほど揺いでいる。

光をモチーフとした絵画に映像(光)が照射されることで、揺らぎが絵画が動いているようにみえる。映像は絵画をはみ出して空間全体を覆うようで、その世界の中に入り触れるような感覚でもある。

■写真のエッセンスを含んだ絵画

蓮輪さんの作品は、写真のトポロジーで描いているとも言える。絵画(キャンバス)を写真でいうフィルムや印画紙に見立て、その光の軌跡を描いていく様は写真の原理と抵触する。それは長時間露光のようである。

写真露光を使用するどの作品もイメージが、ソフトフォーカスをかけたように輪郭がぼやけている。それに対して蓮輪さんの絵は動いてるにも関わらず、輪郭がはっきりしてるのが特徴である。

対象とするイメージはボヤけてるかもしれないが、イメージを構成する絵の具の輪郭ははっきりしている。

絵画は写真に比べて説得力があると思っていたが、ずっとその理由がわからないでいたが、上記がその解の1つかもしれない。

■写真的なアプローチが絵画への入口を広げてくれている

(個人的な見解だが)制作の中で一番に時間をつかうのが鑑賞でいろんな作品に出会うのだが、現代アートと呼ばれる作品にはほとんどローコンテクストでもみることができるが、絵画は、ローコンテクストだけは理解できない要素がたくさんある。

哲学者の千葉雅也はインタビューで、絵画を見る際に「絵筆の動きをたどることで、描くという行為を追体験することができる」と語り、絵画とは認知経験のプロセスの記録である、と説明している。

しばしば、絵画のみかたがわからないと思うことがある(つまり、リテラシーがないのだが汗)。もちろん、現代美術も絵画の歴史を含めたハイコンテクストな部分があって成立しているのは(内容はさておき重要性を)理解しているつもりである。

蓮輪さんの作品が、トポロジーで(個人的にみなれている)写真に接近しているせいか、写真からみた絵画の在り方が明瞭になってきた。結果として絵画の入り口が広がったように思える。

■絵の具の輪郭がはっきりしているとは?(仮設)

蓮輪さんはリヒターに影響されてるようである。そこにある批評性は作家によって言語がされていないので仮説で述べてみる。

この手法は精密に写真をそのまま描き写すのではなく、輪郭をややぼかしていくことで滲みやスピード感を与え、写真では写すことのできない質感が生まれる。

これは、リヒターの作業作のフォトペインティングの説明によく出てくる記述である。これが蓮輪さんの作品との共通点である。
さきほど述べた、”対象とするイメージはボヤけてるかもしれないが、イメージを構成する絵の具の輪郭ははっきりしている” ことは、写真では写すことのできない質感 と言えるであろう。

■イメージの動きの解釈

次に、蓮輪さんとリヒターの相違点を述べる。

絵画のベースについて、蓮輪さんは映像だが、リヒターは写真である。

写真も映像も時間を司るメディアであり、撮影時もそのあとも時間とは切り離すことができない。アウトプットでみると、写真はイメージが静止していることに対して、動画は実際にイメージが動くという違いがある。

動画を使用する蓮輪さんはイメージが実際に動く様(=ゆらぎ)をそのまま絵の具にのせ絵画にする。対してリヒターは、静止がである写真に動きをのせて絵画にする。このように”イメージの動き”というワードから2人の作家がどのように時間への取り扱いが少しわかる。

鑑賞者にとってイメージの動きを考えてみても上記と同じになることが想像できる。写真は静止したイメージを取り込むことで(おそらく)脳内でイメージが再生される。それに対して動画は、視覚でみえるイメージが実際の動きそのものである。

蓮輪さんとリヒターの絵画はイメージを認知するプロセスをカタチにしているかもしれないと解釈できる。リヒターと蓮輪さんの作品を以下のように解釈をまとめると、

リヒターの絵画:脳内でイメージが再生されること=実体性
蓮輪さんの絵画:イメージの動きをそのまま絵の具にのせる=実体

■絵画のみかたを取り入れると

哲学者の千葉雅也の解釈である、絵画を見る際に「絵筆の動きをたどることで、描くという行為を追体験することができる」を取り入れると、蓮輪さんが”イメージの動きをそのまま絵の具にのせる” 行為を追体験できるとしたら、その追体験が脳内でイメージが再生される実体性かもしれない。

ここで、もう1度整理すると、

リヒター:写真にうつる事実がもつ実体性そのものを実体化させて表現
蓮輪さん:描くことによるイメージの動きをその実体性として取り扱い、絵の具という実体で表現

言い換えると、リヒターは写真をみたときに感じる実体性をカタチにする。なので、そこにうつる写真の内容が重要になってくる。蓮輪さんは、描くこと自体に実体性を感じており、その理由を映像のゆらぎにもとめている そこにうつる対象というよりは、描くことそのものを説明できるメタファーが必要になってくるということである。

補足:
リヒターは静止画をつかって頭の中の映像(実体性)を作ろうとしている。
蓮輪さんは、動画をつかって頭の中の静止画(実体性)を作ろうとしているが、観察できるのは実体のみである。

■印象派との接点

ここで蓮輪さんの作品と印象派との接点も述べておく

この中でとくに該当するのは、以下の3つかもしれない。
●瞬時の風景をとらえる
●空間と時間による光や色の変化の描写
●人間の知覚や体験という重要な要素としての動きの包摂

とくに、”イメージの動き”を蓮輪さんが描くことに置き換える様は、ある瞬間に個人の目に映った主観的な視覚世界を大事にして風景を重視した印象派の作品に近いとも言えそうだ。
ここでいう、”イメージの動き”を蓮輪さんが描くことに置き換えることは、瞬時の風景を捉える様であり、写真との共通性をみることができる。

■それを何故あえて絵画にするのか?

現在に至るまで多彩な作品を展開。様々なスタイルを同時期に並行させながら、一貫して「絵画の可能性」を追求し続けている。

これは、すでにできあがっている映像や写真をあえて絵画にしている、蓮輪さんやリヒターへの問いである。実は長年の疑問であったこの問の解の1つがここにあると思う。2人の画家の共通点は、「絵画の可能性」を追求である。実体性と実体の間で往来するものに”イメージの動き”があって、その取り扱いのバリエーションである。

■時間と空間の取り扱いとしての観察

最終的なアプトプットとして、時間と空間についても言及する(あえてインスタレーションとは言わない)。

展覧会が開催された場所は普段写真の展覧会が開催されることが多い。これまで”普通”とされてきた写真の表現手段をこえた、写真の実体化試験験場みたいな場所である。

普通の写真展の場合は、時系列(ストーリー)をつくりあげ、(とくに日本の場合)空間に水平方向に展開することが多い。映像ではないがその写真の連続が断続した映像になるようにつくられているのもしばしばである。

それに対して、絵画の時系列がそのイメージの中で完結している場合がほとんどで、隣り合う作品との時間は全く別であることが珍しくない。この場合、時間とは全く関係ないつながりで空間に構成される。

#202   揺れる人物の像をもととした大小の絵を中心に展示。
#205   2010年から加筆を続けている光をイメージした絵の上に動画を照射して展示。

蓮輪さんの今回の展覧会は、時間を水平に空間展開している#205の空間は、写真に近いといえる。それに対して、#202は、時間を立体的に空間展開しているので、絵画に近いといえる。

実は、空間に入った印象として、普段みている写真の展覧会と比較しても違和感を感じなかった。あとからその理由を、写真の実体化試験験場=時間を立体的に空間展開している場所 である為であったと考えられることができた。

■微分的解釈と積分的解釈

上記の内容をもう少し違う言い方にしてみると、

積分的解釈:一枚の絵に、イメージの動きの軌跡を積み上げていく(=時間の立体的な取り扱い)
微分的解釈:一枚の絵に、イメージの動きを積み上げない変わりに、隣面との差分で表現する(時間の水平的な取り扱い)

ここであえて書くと、積分的解釈は絵画で、微分的解釈は写真や映像である。蓮輪さんの作品は#205での微分的に解釈(映像で)コンセプトを伝えつつ、#202の積分的解釈(絵画)で作品を提出する展覧会であった。

描くこと(積分)自体に焦点をあてている場合、それ(積分の内容)を想像できない人の為に、映像での説明(微分)は有効であった(とくに写真の試験場であったという理由も含めて)。

逆にリヒターの場合は、写真にうつる事実がもつ実体性(が積分の内容で)の実体化が完了しているので、(微分しなくても)絵画をみるだけで(それがなんなのか)すべてが説明できる。(蓮輪さんの場合は、映像なしに絵の具の意味の説明ができない)

リヒター:写真(そこにうつる歴史・軌跡)を絵画的に取り扱い
蓮輪さん:絵画(描くことの歴史・痕跡)を写真的に取り扱い

■作品としてのテーマは?(期待値込み)

ここからは、仮説でなく完全にモノローグ(蛇足)である。

絵画の中にあるテーマはわかったが、作品としてのテーマが不明瞭なところもある。なぜその対象がなのか?もう1度考えてみたくなるような作品である。これまでの文中でも述べたが、蓮輪さんの作品は”描くこと自体”がテーマである。次に与えられるモチーフは(おそらく)そのメタファーである。

しかし、描くことのメタファー(内側からの理由)だけでは、それを描く理由としては伝りにくいだろう。それを対象とする理由(外側からの理由)を後付けでも付け加えることができたなら、作品として強度が増すように思える。なぜならば、それを取り扱うときは常に外側からの理由を求められるからである。

蓮輪さんの作品は、イメージの動きのバリエーションである。わざわざ理由を与えなくても。そのバリエーションがたくさん目にみえるようになったときに外側の理由がえられるかもしれない。

ここでいう外側の理由を与えることは、他人による取り扱いよりその解釈が多様に与えられることであり、イメージの動きのバリエーションをつくることでもある。

もしそれが達成されたときに、人の干渉によりどのようにもとらえる事の出来る絵が完成する。

■作品の良品条件を考えてみた。

ここまでリヒターを比較対象として、蓮輪さんの作品を解釈してみた。
これが蓮輪さんの作品の解のすべてと考えてなく、ほんの1部である。

それでも「絵画の可能性」を追求している姿からわかったこともある。
絵画にある写真では写すことのできない質感 の秘密を知ることができた。それは、make riality(=具現化)であり、言い換えると実体性を実体にすることである。

事前的解釈:撮影した映像をもとに絵の具でその軌跡を描く。
事後的解釈:描くことの動きをイメージの動きと連動させることでその実体性を直接的に取り扱い、絵の具という実体で表現

蓮輪さんの作品は事前的解釈で説明がされるが、この場合は実体を実体性として提示している。これを事後的解釈に変換すると、実体性が実体となって提示することができる。

さらに良品条件を考えると、make riality(=具現化) のことで、

作品に鑑賞者にとって、
●約束:約束ができるものがあること
●説明:その約束が説明完了できること
●納得:その説明にて納得(説得)ができること

蓮輪さんの作品に置き換えると、

イメージが実際に動く様(=ゆらぎ)をイメージの動きに言い換えることによって、
●イメージの動き=描くこと(約束)
●時間(=イメージの動きとして捉えたもの)を立体的にすること(説明)
●イメージの動きをそのまま絵の具にのせる(納得)


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