見出し画像

「逝きし日の面影」「近代の呪い」を読んで - 江戸時代は遅れた暗黒の時代という思い込み

「江戸時代」と聞いて、どういうイメージを思い浮かべるだろうか。学校の教科書や、ちまたにあふれる歴史小説や漫画を参照すると、「江戸時代」は徳川幕府が統治を強固にするために士農工商、えた、非人といった身分制度を作った、遅れた暗黒の封建時代というイメージが強いのではないだろうか?

例えば、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」などを読むと、開国もせず閉鎖的で他国に比べて文明が遅れて酷い身分差別を作った幕府を、竜馬や幕末のヒーローたちが立ち上がって倒し、新たな「明るい」明治維新という近代国家を開くというストーリー仕立てになっている。「カムイ伝」という漫画でも、江戸時代にはひどい身分差別がはびこっており、差別されたものが大変な思いをしたと描かれている。

だが、「江戸時代」は本当にそんな暗黒の時代だったのだろうか?歴史家の渡辺京二さんの著作「逝きし日の面影」「近代の呪い」を読むと、実はそうでもないことが良く分かる。

「逝きし日の面影」には、江戸時代に来日した外国人から見た当時の日本人の姿が描かれている。そこには、人と人との関係が濃密で、日常の些細なことにも喜びや幸福を感じていた陽気な民衆の姿があった。働きたい時に働き、休みたい時に休む自由な労働者精神にも満ちていて、彼らは明らかにお金のためでなく、労働自体を楽しんでいた。その上、当時の日本は外国人から「子どもの楽園」と形容されたように、親は子どもを自由に遊ばせ、ほとんど素裸で路上を駆け回らせ、子どもがどんなにヤンチャでも叱ったり懲らしめたりしている有様は見られなかったことだ。

江戸時代には、確かに形式上の身分制度は存在したが、武士とそのほかの民衆の住む世界は物理的に完全に分かれていて民衆は自由にやれていたし、上は将軍から下は最も下賤の召使に至るまで法の下に平等だった。1820年から29年まで、出島オランダ商館に勤務したフィッセルの著作にはこう記されている。「日本には、食べ物に事欠くほどの貧乏人は存在しない。また、上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼がいきわたっていることを知ることができるだろう。」

この点に関しては、現代の1%の金持ちが90%の富を掌握するほど深刻化した貧富の差の方がよっぽど不平等で問題のある社会に思える。また、今の日本は7人に1人が日々の食べ物に困っている。

江戸時代の民衆は、自分たちの生活実態こそ信ずべき実体として、その上の上級権力は自分たちの実質的な幸福と何も関係ないとする信念を持っていた。つまり、形式的には、お上や幕府に頭を下げてはいるが、民衆世界が上級権力によって左右されない自立性を持っていた。

では、近代とは何だったのか?このような民衆世界の国家とかかわりのない自立性を撃滅したのが、近代(日本で言えば明治維新)であると、渡辺京二氏作の「近代の呪い」で述べられている。

近代の幕開けは、これまで政治には全く関係のなかった「迷妄なる」民衆を教育し、「国民」にした。おら知らねえよと言っていた民衆が、喜んでお国のために死ぬことになった。「市民的自由」とか「民主主義」という美名のもとに、民衆を教育して天下国家に目覚めさせたことは、結局、国民国家によって民衆が掌握される度合いを強化する結果をもたらした。

そして、ここ最近は社会の福祉化、人権化、衛生化が進むにつれて個人はますます社会の管理を受け入れざるを得なくなっている。人権化はいわゆるポリコレ含めて差別の徹底排除の方向のことで、衛生化というのは社会環境を徹底的に殺菌・無害化する方向のことを指す。これによって社会の管理機能は増大する。このように個人が国家に従属していく様相は今後強まるばかりで、これらはみな、民衆世界の自立性を近代が撃滅した結果なのだ。

こういった渡辺氏の指摘は、コロナ騒動時に国民が恐怖を煽られ、国の指示する保健施策に盲目的に従ったことを思い起こせば、非常に合点がいく。もはや形式上の身分制度はあっても自立していた江戸時代の民衆は日本に存在せず、奴隷のように国家に従属する国民しかいなくなったように思えてならない。なんとも悲しいことだ。

渡辺氏同様、私も国家や行政の世話にならなくても人の一生は仲間内で完結できるという自立性を信じるし、そういう自由な人生に憧れる。国家の管理から自立していたいと思うし、たとえ物理的に管理から逃れられなくなったとしても、精神的には自立していたいと感じる。

この実現のために、今なんとなく頭にあるのは、食、エネルギー、教育の自給自足、そのためのコミュニティ作りだ。今後はこの計画をしっかり練り上げていきたいとボンヤリとだが考えている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?