認知的不協和の解消のための3ステップ


僕は生命現象の不思議に魅せられ研究をしていますが、その一方で、人の認知やらその人が作り上げられてきた「その人の歴史」(これも広い意味での生命現象)にとても興味を持っています。
 
色々な人と出会い、その人がどのように世界を見ているのか?ということを教えてもらうことで、自分が知らなかった・考えたことのない見方を知ることは、新しい世界を知ることと同等のように感じています。
 
その過程で、多くの人にとって、「言動を理解できない他者の理解・対応の仕方」には3段階あるように感じるようになりました。自身が持つ認知的不協和をどう解消するか?といった方法と言い換えることもできます。
今回はこれを図示して説明してみようと思います(Fig参照)。

認知的不協和Fig

 
1stステップは、「言動を理解できない相手を自分の視野(価値観)に引っ張り込もうとする」ことです。

つまり自分がどうにかするというよりも、自分の持つ価値観・視野に相手(図中の☆マーク)を入れ込もうとすることです。動くのはあくまで相手です。相手が動いてくれないと怒るし、愚痴ります。
 
典型的な例として、子どもに対して、「勉強しなさい!!」と言ってしまうことがあげられます。これは親が「勉強することは子供にとって大事である。→ 勉強しないと大変なことになる。→ だから勉強させなきゃ」という思考回路であるからだと思います。この場合の問題点は、勉強することが子供にとって大事というのは本当か?(遊びはもっと重要ではないか?)とか、勉強しないと大変なことになると思っているのは自分の思い込みではないのか?と考えたり、子供は自分が思う以上に自律して育っていってくれるはずと考えるといった内省が十分にできていないところかもしれません。また、最もまずいのは、別の人間であるにも関わらず、「子どもはコントロールできる存在である」と考えてしまっていることだと思います。
 
 
2ndステップは、「言動を理解できない相手を理解しようと、自分が視野を広げるために勉強する」という段階が来ます。

ここでは「自分の持つ視野が狭いから相手を理解してあげられないんだ」という自分を主語にする思考回路で、自分の持つ視野を広げ、勉強して得た新しい視野の中に相手を収めようというやり方です。「なんでこの人はこういう行動をとるんだろう?」とか、「何故この人はこんなに自己肯定感が低いのだろう?あるいは愚痴が多いんだろう?」などと考え、これを理解しようとします。例えば、本を読んだり、講演会で話を聞くことによって、自分の見識を広げるといったやり方で。最近だと発達障害や愛着障害などがあるということが広く知られてきたので、自分がなんで?と思う相手の行動などに関して、これらの可能性を一考する機会も増えているのではないかと考えています。但し、このやり方は相手に対して間違ったレッテルを貼ってしまうという恐れがあります。
  
 
1stおよび2ndステップでは、共通して自分の視野の中に相手を入れるという目的で行動しています。一方で、3rdステップではこれらと一線を画します。
  

 
3rdステップは、「自分自身が理解できないことの方が多いということを知る」という理解の形をとります。

これはいくら勉強して得た新しい視野で相手を理解した(枠の中に入った)と思っても、実はまだその外に理解できない言動があるという状況があって、これを認めるということです。これを認めるというのは、相手のありのままを認めるということに他ならないのかなと感じています。特に子育てしていて思うのは、子どもはこちらの予想をはるかに超えてきます。その予想を超えた行動を面白がるか否か、不確定性を楽しめるか否か、がこの3rdステップでの理解の仕方の成否を分けるような気がします。ただ、この3rdステップは上級者向きの考え方であり、ともすれば「ありのままを認めるという仮面を被った無関心」「一見相手を理解しているように見せて体よく切り捨てる人それぞれという考え方」につながる恐れも秘めています。

 
先日ある友人と話をしていて、勉強すればするほど知らないことが増えるという話を聞きました。なるほどと思い、その際に上記の内容が頭を過ぎりました。
 
つまり、勉強することの究極的な目的の一つは、「自分がいくら頑張っても知らないことは世の中にあるし、理解できない言動や行動はある、ということを勉強する本人が知る」ということではないかと。ソクラテスの言う「無知の知」のようなものかもしれません。成長の過程で何か一つでもこれ以上できない!!というくらいに何かに打ち込んだ人は、上には上がいることを痛感させられ、このことに気付いていることが多いように感じます。自分の小ささを知ると言い換えられるかもしれません。これはその人を謙虚にさせるのだと思います。
 
一方で、このような経験がない場合、当然3rdステップの理解の仕方はとうていできません。そうなると、1stおよび2ndステップにあるような理解の仕方がメインになり、理解できることしか認められないというところに思考が落ち込んでいくのではないかと思います。そのような社会に希望はあるのでしょうか…と考えると暗澹たる気持ちになります。
 
大学時代、ある先生が2年時の講義で、「大学で学ぶ内容って難しすぎて理解できないでしょ? そう思えたら、それは大学に来た意味があるということですよ。」とおっしゃっていたことを思い出します。その内容は約20年経った今でもはっきり覚えています。上記の文章を書いていて、今度は自分がそれを学生さんに伝えられるように精進せねばと、2020年、気持ちを新たに頑張ろうと思いました。

ここまで読んでくださった方、お付き合いいただきありがとうございました!!

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