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ウイルスという存在の意味

読書という趣味と授業の小ネタという実益を兼ねて、ウイルスに関する本を読んでいます。研究でウイルスを使っているため基本的なことは知っているつもりでしたが、天然のウイルスについては結構知らないことが多く、とても勉強になっています。病原性のものが主ですが、それ以上に生物とは何か?を考える非常に優れた機会なのかもしれません。授業の話のネタが増えそう。ウイルスの歴史もさることながら、その増殖戦略はため息が出るほど巧妙です。なぜこういう生命体?が存在しているのか、謎です。
   
ヒトがヒトとして地球に出てくるはるか前からウイルスは存在しているし、ウイルスなくしてはヒトがヒトたり得なかったということもあるようです。

 
  
例えば、合胞体性栄養膜という胎児の栄養膜は、お母さんの血中にある栄養分を透過させることはできるが、免疫細胞は透過させません。これによって胎児は、お母さんの体の中で、免疫学的に異物である子どもは免疫によって排除されるのを免れつつ、栄養を受け取り成長することができます。実はこの合胞体性栄養膜の発生に重要なタンパクをコードする遺伝子、ウイルス由来なのだそうです。つまり、このウイルスがいつヒトになる前の生物に感染したかどうかは分かりませんが、ウイルス感染がヒトをヒト足り得させた一例として考えられます。

 

ウイルスがヒトにとって脅威となってしまう状況が生じることそのものに意味があるように思ってしまいます。我々の社会がウイルスのアウトブレイクの温床となってしまい、機能停止を余儀なくされるような脆弱性を内包していることを明らかにしただけということなのかもしれません。一方でそれはすなわち、ヒトが作っている社会とはどういうものなのかを、ウイルスからの狙いどころという視点から見ることで、私たちが新しい視点を得られるきっかけとして利用することができるのかもしません。

 
自然界はただそこにあるだけで、起こる現象に善し悪しはなく、単なる結果なんだと思います。ウイルスを撲滅するというよりも、ウイルスとともに生きていくことを前提として、すなわち、これまで地球環境を使い尽くすように生きていた人類が、もっと自然現象に対して謙虚になって、どのような地球を我々が作るべきか考えろというメッセージのようにも感じてしまいます。
  
ちょっと話題は変わりますが、以下に述べるインフルエンザの多様性獲得メカニズムはよくできているなと思いました。
 
インフルエンザは異なる8本のRNAを含んでいます。
インフルエンザウイルスは、異なるタンパク質をコードする8本のRNA(遺伝子)を自身の中に持っていて、その増殖の仕組みそのもので多様性が担保されているようにできているとのこと。これは下に簡単に説明する「遺伝子ドリフト」および「遺伝子分節の再集合」と呼ばれる仕組みです。
 
「遺伝子ドリフト」とは、ウイルス中のRNA配列の変異によって生じる多様性のこと。ウイルスが感染した細胞の中で、新しいウイルス粒子を作る際に自身のRNA配列をコピーする必要があります。これはRNA合成酵素というタンパク質によって実行されるのですが、このRNA合成酵素は(故意か故意でないのか)ある一定の割合で複製ミスを起こします。これによって遺伝子の配列の中の塩基1個レベルで変化してしまいます。この配列からタンパクが作られることで、もとのタンパク質に対してアミノ酸が変化したものが作られます。これがウイルス粒子の表面抗原におこると、当然免疫原性が変化する「抗原ドリフト」が起きてしまい、宿主の免疫が応答しなくなることがあります。
 
また、一つの感染細胞に異なる2種のインフルエンザウイルスが感染すると、それぞれのウイルス由来のRNA分節が混ざった状態が生じ、新しいウイルス粒子の中にランダムに封入されます。例えば2つのインフルエンザウイルスが1つの細胞へ感染した場合、8本のRNAそれぞれについて、2種類(それぞれのウイルス由来のRNA)のRNA分節が封入されるため、新しいウイルス粒子には理論的には2の8乗、すなわち256通りのRNAの入り方があります。この現象は「遺伝子分節の再集合」と呼ばれ、ウイルスにとって「遺伝子ドリフト」と並んで、多様性を獲得する仕組みとなります。感染前のウイルスとは異なる抗原性を持つことになることから、もしも新しい亜型に対してヒトが免疫を持たない場合には、感染爆発が生じるということになるとのことです。
 

 
上記のインフルエンザウイルスの例のように、ウイルスにとっては増えていく過程で自身を変化させることが至上命題であり、それによって過酷な条件でもその遺伝子を残していくことを目的としています。

 

よく、ウイルスvs人類という表記がありますが、いつも違和感を感じています。確かに人道的な観点からウイルス感染をしたヒトを救わなければならないと思いますし、そのような観点で書かれていることは重々承知しているつもりです。しかし、一方でウイルスにとっては今みたいな状況って、新しい亜型になったことでどうやってヒトという生物と共生していけばよいのだろうかという感じの試行錯誤している段階なのかもしれないなとも思うのです。特に重要なことは、そのようなことは僕らが騒ぐもっともっと前、太古の昔からずっと続いていることなんですよね。。

 

ウイルスの視点から社会を眺めてみる、ウイルスの目的と強かな戦略を抽象化し、持続可能性について社会はどうあるべきかを考えてみる。僕らヒトは思考して知恵を出すというウイルスにはない強力な戦略を持っています、ただしそれゆえに自然界に対して傲慢になりすぎてしまっているのかもしれない。

 
ヒトが頂点として君臨して「ヒトにとっておいしいところをどれだけ取り続けられるかという意味での持続可能性」ではなく、ヒトも生物の一つとして含めた場合の「地球の中のシステム全体の持続可能性」を考えよと言われているような気がするのです。

 
参考文献
ウイルスは生きている (講談社現代新書) 中屋敷 均
ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在 (みすず書房) 山内 一也
インフルエンザ・ハンター: ウイルスの秘密解明への100年(岩波書店) ロバート・ウェブスタ


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