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階段のことを考えながら

掃除機をかけながら思わず口をついて出た独り言が、独り言にしては大きすぎ、掃除機の唸りの中でも完全にはかき消し切れずにぽんと宙を泳いだ。こういう母親って子供にとっては結構ハードなんだろうなと思う。頭がイカれちゃってるのかもしれない。イカれてる?それにしたって一体どこにイカれてない人なんているんだろう?全き正常、まとも、烏賊の吸盤の先ほどもイカれてないって人なんか最近見たことない。

昨日作った餃子の余ったあんと、食パンで肉まんもどきを作って、それと一緒にインスタントラーメンをお昼に出したら、あの子はインスタントラーメンに夢中で、肉まんもどきには目もくれない。結構美味しいのに。そうか、あれだな。イカれた母親の作った肉まんもどきなんか食べたくないんだな、イカれてない製麺会社の人が製造したインスタントラーメンのほうがいいんだ、くそうー。肉まんもどきには目もくれないわりに、インスタントラーメンの汁を美味しそうに飲んでるから、「そんなにおいしいの?」ってきいたら「うん。おいしい」ってあっさり。おやつには、煮りんごを昨日の余った餃子の皮に包んで油で揚げたのを食べさせようと思ってたのに、ほんの少しの食後休憩が終わったらPSP持ってさっさと自転車に跨り、友達の家へ遊びに行ってしまった。

自転車、さびてるね。もうそろそろ買い換えなきゃね。サイズも小さいし。玄関先までヘルメットをかかえて見送りに立ち、ヘルメットを渡しながら、車に気をつけてねとか何とか、未練たらしいことを言い、自転車を漕ぐ後姿がずっと小さくなっていくのをしばらく立ち尽くしながら見つめてるうちに、なんかこれじゃダメだって急にそう思えてきて、そうして、ぐんと決心して家に入る。もう豆粒みたいなあの子の後姿がほんとにほんとに見えなくなっちゃうまでずっと家の前の道端に立って見送るのは金輪際やめようってそう思う。

ソファに座って昨日から読みかけのティム・オブライエンの本を開く。ティム・オブライエン。わたしが子供だった頃には外国人作家の本の背表紙には、姓と名の間は中点ではなく等記号で結ばれていた。ティム=オブライエン、みたいに。子供だったわたしにはこの等記号の意味がひどく意味不明で、高度な謎で、そのせいで余計にアメリカの児童文学本が魅力的に感じられた、ような気がする。どうでもいいような微かな思い出話。

「世界のすべての7月」とてもおもしろい本。それを読み終えたら次には「失踪」だって待っている。だけど、なんだか落ち着かなくて結局本を閉じ、あの子がいない隙に、普段なかなか行き届かない、ちょっと細々した部分の掃除をしてしまおうかなと思いたつ。埃とりのもわもわしたスティックと絞った雑巾を手に、あちこちの普段は決して目を留めないような部分を清潔にしながらじわっと考える。
多分、わたしはあんまりにも長く、ひどく日常的に、あの子のことを心配し続けてきてしまったんだ。それがわたしの体の真ん真ん中の部分に、しっかりと根っこをはった巨木みたいに、いつのまにか、どかっと居座ってしまってるんだ。だけどそういうことは、もうこの先には多分似つかわしくない。階段の一段一段を隅々まで雑巾で拭きながら考える。それならわたしは、これからこの階段のことを考えて暮らすことにすればいいんだ。この階段の一段一段のことを。この階段一段一段にはられた木のことを。
馬鹿げてる。そういうことは百も承知で、それでもそれは意外にもいい考えのように、わたしの心にしっくり馴染んだ。

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