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現代のキリスト教としてのポリティカルコレクトネス

こんにちは。榎本です。
今日はポリティカル・コレクトネスと多様性、多数の人が賛成していそうな考えについて、これこそが大きな社会の歪みをもたらしているのではないか?というひねくれたnoteを書きたいと思います。

キリスト教とルサンチマン

まずはポリティカル・コレクトネスを語る上で、世界的にあらゆる分野に大きな影響をもたらしたキリスト教について、ニーチェの考えを振り返ってみようと思います。

1.良いこと・悪いこと
元々、良いこと=強いこと、悪いこと=弱いことというのが弱肉強食という原理があるくらいですし人間本来の持つ価値基準としてありました。
強者のわがままを許すのか!と言う人もいそうですが、過去の戦争などの歴史を鑑みればこれは原理としては当然のことです。(※1)

2.キリスト教の教義
キリスト教は他者のためにあることが良いことである、と広めました。

3.僧侶の曲解とキリスト教の布教
ニーチェが言うには、僧侶による曲解(※2)によって「他者のため」→「欲をなくすこと」となり、欲を満たせる強い人=悪い、弱い人=良いとなりました。これは現代でも多くの文脈で、「弱者」であることのほうが慈愛の目を向けられて強くなる、という転換が根強く残ってますよね。

4.弱者に大受けし強力な一般意志+信者を増やす
この考えは「痛み」を抱える弱者にとっては自分たちを無条件で「強くしてくれる」最高の思想になります。それによって多くの信者が増えることで、強力な一般意志ができあがりました。

5.心理的構造としてのルサンチマン
しかし、ニーチェに言わせてみれば、このような今では当然となった価値転換が起きるのは、ルサンチマン(憎悪)的気質故だとなりました。
つまり、本来のキリスト教の他者のためという愛をスタートせずに、弱者の強者に対する強い嫉妬や憎悪をベースに、自分たちが強者になりたい!という「痛み」を回避するある種の心理的衝動に駆られているだけだということです。

6.ニヒリズムの蔓延
さて、それによって結果として弱者が強者にのし上がることは成功しましたが、このような本来の人間のあり方に反した思想が向かう先はニヒリズムです。何かを目指すわけではなく、自分の痛みと向き合う訳でもないので、ひたすら腐っていくだけです。

僧侶的民族であるあのユダヤ人は、おのれの敵対者や制圧者に仕返しするのに、結局はただこれらの者の諸価値の徹底的な価値転換によってのみ、すなわちもっとも精神的な復讐という一所業によってのみやらかすことを心得ていた。(中略)貴族的な価値方程式(善い=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される)に対する逆転のこころみをあえてし、底知れない憎悪(無力の憎悪)の歯噛みをしながらこれを固執した張本人であった。すなわちいう、「惨めな者のみが善い者である。貧しい者、力のない者、賤しい者のみ、病める者、醜い者のみがひとり敬神な者、神に帰依する者であって、彼らの身にのみ浄福がある。ーこれに反し、お前ら高貴にして権威ある者ども、お前らこそは永遠に悪い者、残酷な者、淫逸な者、貪欲な者、神に背く者である。お前らこそは永遠に救われない者、呪われた者、堕地獄の者であるだろう!」
(善悪の彼岸・道徳の系譜)

※1
もちろん人間の本来的な利他の心は、強いこと=良いことでないと悟らせてくれますが、ここでは一般的に弱者的に痛みに向き合わない人を対象としているため、この概念で進めます。つまり、「強いことが良いことなんておかしい!」なんて言うこと自体が、自分自身が強くなりたいということへの現れです。これをニーチェは「力への意志」と言いました。

※2
ニーチェの著作の中では、キリスト教への批判がキリスト教の教義自体か、キリスト教の教義の曲解した僧侶的なマインドセット=ルサンチマンが悪いのかを明確にしていません。ここは僕の意見ですが、キリスト教の教義自体、無償の愛などは本質的な概念で、ルサンチマンを引き起こすことを意図していないと思っております。しかし大乗仏教的に概念を広める上でそのような悟りのアイデアは難しいので、悪いことをすると地獄に堕ちる・良いことをすると天国に行けると、入り口を広げたという認識です。しかし大乗仏教の罠として、曲解を招いたり信者の腐敗が生じたというのは当然の帰結と思っております。

ポリティカル・コレクトネスの窮屈さ

上記の考え方の上で、ポリティカル・コレクトネスを見ていきたいと思います。

ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、性別・人種・民族・宗教などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正・中立な言葉や表現を使用することを指す。

ご覧の通り、ポリティカル・コレクトネスの定義自体は、キリスト教の教義同様に批判が呼ぶようなものではないと思っております。

しかし実際の社会ではポリティカル・コレクトネスによる窮屈さが生じております。

シーズン19のエピソード「Stunning and Brave」のテーマは、自身の出演したリアリティ番組をきっかけに性同一性障害だったことを告白し、女性に性転換をしたことが話題となった、元アメフト選手ケイトリン・ジェンナー。アメリカでは彼女のことを“Stunning and Brave”(魅力的で、勇敢だ)と評価するのがポリティカル・コレクトネス(PC)の観点から一般的だそうです。というのも彼女のことを悪く言うのは「ダサイ」ことで、許されるべきではないという空気感があるそう。

しかしエピソード内で、主人公の一人であるカイルが、「個人的に彼をそんなにすごいと思わない。」と悪気がなくて言ってしまった途端、PCを押し付ける校長やその他PCフラタニティ(サークルみたいな団体)に責められまくり、PCがやっかいなものになっていく・・・という展開で話は進んで行きます。さすが時事ネタや議論を呼ぶテーマを扱うサウス・パーク。PCは大事だけど、固執しすぎるがあまり、社会が窮屈になっていないか?という風刺をしたエピソードでした。
(アメリカのコメディ・アニメ、サウス・パーク)

概念としては素晴らしいものなのに、なぜこのような窮屈さが生じているのでしょうか?トランプ政権もこういった綺麗事の窮屈さから生まれたと考察する人もいるくらいです。

ポリティカル・コレクトネスと多様性の罠

僕はここにはポリティカル・コレクトネスが現代のキリスト教として機能してしまっているからだと考察しております。そして現代の僧侶はリベラル

1.多様性と善悪
元々、多様性は自分たちが生きやすくなることもあれば、他の価値観の人と共存することで生きづらくなることもありうるものでした。なので、善い多様性とは互いに受け入れ合うことです。悪い多様性とは受け入れないでただの分断を引き起こすものです。

2.ポリティカル・コレクトネス
ポリティカル・コレクトネスではこうした考えを政治的に正しいものとして、性別・人種・民族・宗教などの差別がないような表現を求めます。

3.リベラルの曲解とポリティカル・コレクトネスの広まり
ポリティカル・コレクトネスや多様性の概念の前提条件は上記にある通りなのですが、リベラル派はここで大いなる曲解を引き起こします。「多様性」=差別がないこと、現在少数派を作っている多数派=悪い、少数派となっている人=善いという倒錯です。
この定義に疑問を持つ人もいるかもしれませんが、下記の記事を見ていただくと世論の兆候が見えてくると思います。本来分断をなくすためのポリティカル・コレクトネスが、分断を招く批判の論拠になっております。

一方、ポリティカル・コレクトネス(politicalcorrectness・政治的に正しい言葉遣い)は、米国社会においても、左翼メディアの論調に同意しない市民や政治家を容赦なく叩くための最も殺傷力のある「武器」となっている。
(中略)
大統領は、左翼メディアがポリティカル・コレクトネスの風潮を広げ、うわべでは少数派の権益を守るためだと主張しているが、実際にこれを利用して、他の国民の言論の自由を制限し、意図的に社会を分断させ、国民の対立・紛争を引き起こしていると批判した。

4.少数派に大受けし強力な一般意志+信者を増やす
この考えは少数派弱者にとっては自分たちを無条件で「強くしてくれる」最高の思想になります。それによって多くの信者が増えることで、強力な一般意志ができあがりました。さらに、多数派になっている人の中でも「リベラル」を自称する人は「自分たちは少数派を配慮している多数派(なので悪ではない、強者になりうる)」という擁護につながります。

5.心理的構造としてのルサンチマン
そして同様にここでルサンチマン(憎悪)的気質が隠れております。
つまり、少数派にとっては自分たちが強者となり声を届かせるツールですし、多数派リベラル層にとっては自分たちは間違ってないと思える心理構造だということです。これを佐々木俊尚さんは「マイノリティ憑依」と呼びました。過去のキリスト教のように、自分たちの「痛み」に目を向けずそのまま価値転換を引き起こし、強者になりうるツールとして機能しているということです。

6.分断の拡大
さてこれによって、起こるのはさらなる分断です。「悪い」とされた「多数派」も、「そもそも多様性を否定するような多様性は多様性ではないのでは?」となり、ますます理想の社会からは離れていきます。
これは次の寛容のパラドックスからも言えるかもしれません。

「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」

現代にとっての聖杯とは?

聖杯とは聖杯伝説から来ている、なんでも願いが叶うもののことです。(実際は「銀の弾丸」のようにそんなものは見つからないが求めてしまうということ)

ポリティカル・コレクトネスを持ち出すメンタリティは、「痛み」の原因となる問題が単純な標的として用意されているということだと思います。
「政府」や陰謀論でもいいですが、単純にこの問題を起こしている敵がいるはずであるという考えです。

しかし、近代までに大方の問題の本質を論理で解き明かし、それによってできあがったシステムがある現代においては、問題を引き起こしているのは僕たち一人ひとりが相互承認しているシステムが引き起こしており、そのシステムの要素はあげても問題はシステム全体にある、ということでしょう。

聖杯は単純に求められず、システム思考的に課題を解決していくしかないのです。

愛と対話からはじめよう

ではこのようなシステム全体の問題にどう向かっていけば良いのか?
別のnoteでまとめましたが、問題を解決しようとするとそれが問題を引き起こすような再帰性の中にシステム的は問題はあります。

今回のケースもこのような構造を理解せずに、近代的な<問題・原因・解決策>の単純化したモデルで解決しようとすることで問題が発生しています。

今回の問題に関しては、愛と対話であると思っております。
そもそも「少数派/多数派」「女性/非女性」「LGBT/非LGBT」と分けて多様性を考えること自体が、多様性を妨げます。

それぞれ目の前の一人の人間に対して愛を持って、自分を理解してもらうように対話をしていく。
そこには性別や人種や宗教といったことは必要ありません。
理解不足でもしかしたら相手にとって傷つけるようなこともあるかもしれませんが、それに対しても
「今の発言は~な点で自分にとってすごく傷つくようなことでした。」
「あ、そうだったんですね。ごめんなさい。」
と対話を重ねていくことしかないと思います。

これを単純化して
「LGBTを理解しろ!トランスジェンダーは~~なんだ!」
「女性の社会活躍が遅れている!管理職登用率が~%って知らないのか!?」
といってことを叫んだり、それらを無理に代弁しても分断が広がるだけです。

一人ひとりが愛と対話で相手へ理解をしていく。
それこそが真の多様性であり、ポリティカル・コレクトネスではないでしょうか?

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