
悟り日記「言葉ではなく感じること。」
こんにちは。榎本です。
最近の悟りをまとめたnoteを更新していこうと思います。(ほぼまとめですが)
最近、言葉で何かを探求する意欲がどんどん消えてきていて、ただ感じようかなという自分です。
きっと思考ってすでに過去のものなので、今ここに集中していることというか、言葉にするだけで近づくつもりが遠ざかっている感覚なのかもしれません。
キッカケは7月に山奥に宿坊に行った禅寺の旅から。
禅寺×ヨガのリトリート旅行行ってきました
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) July 24, 2020
電波も通じない自然溢れるお寺での座禅・ヨガは自分を見つめ直すいい機会となりました。 pic.twitter.com/keFe0PuJgL
そこの御法話で「空」に関するお話がありました。
「『空』は曇ってても空で晴れてても空です。」
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) July 24, 2020
というお言葉がありました。
空はただ分別してみると空「自体」はなく、晴れ・曇り・雨といった認識でその本質として「空」が浮かび上がるけど、実態はどの天気でもその「空(くう)」こそが空であり。
その上で見る空は同じ曇でも曇でないのだなぁと。
何か言葉で考えるというのは、空を語っているようで、天気を語ってしまうようなそんな感じを、瞑想やヨガを通して感じてきておりました。
そんな中で「意識と本質」という東洋思想を哲学的に言語化して整理する試みをした素晴らしい本についての勉強会を通して、言語化の極地のような本でしたが感じたことが。
難しい議論ほど自分はすぐ表層意識で思考にとらわれてしまうな〜と思いました。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) July 31, 2020
もっと身体感覚とかエネルギーレイヤーで素敵な議論に参加できれば良いのだけれど。
言語にとらわれてしまって、表層意識的な考えに縛られてしまう自分でした。(意識と本質はこちら)
そんな時に昔から大好きな五十嵐大介さんの作品を読みました。
そしたらこんな言葉が。
「どうして本を読んではいけないの?」
「あんたには経験が足りないからよ。"体験"と"言葉"は同じ量ずつないと、」
あなた達の世界は"有限"。
わたし達の世界は"無限"。
あなた達の言葉は、ありとあらゆる可能性を特定の性質に切り分けるナイフ。
自分達の都合のいいように世界を刻む道具。
わたし達は世界をあるがままに見る。
わたし達は言葉を知りながらそれを棄てることができる者。
いちども空を見たことがない人が「晴れた空は青い」と言ったら、
言葉は間違ってなくてもそれはウソなんだわ。
あなた達の言葉は汚れてしまって悲しんでいます。
わたしたちは全身で見て、全身で聞いて、
全身でニオイを嗅ぎ、全身で触れるんです。
自分の体に相手を受け入れて融け合うんです。
そこで思ったのは、「意識と本質」で言う抽象化された普遍的本質と、実在的な個別的本質は「楽譜」と「音楽」のような関係ではないか?ということ。
いくら楽譜を勉強しても、実際の演奏を聞かないと意味がないですよね?
言葉で世界を探求するって、音楽を楽譜だけで探求しようとするものなのでは?と。
芭蕉の歌は普遍的本質を実在的本質に昇華していると「意識と本質」で述べていた。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 8, 2020
DNAも素粒子も物理法則も、それ自体は普遍的本質で散文的な「楽譜」のようなもので、それを奏でて「音楽」にする必要があるんじゃないのかな〜。
楽譜の情報量はたかが知れてる。演奏しないとわからない。
そして、深く瞑想に入ったときリズム?というか歌?みたいなものが聞こえて、自分たちの体はそういった歌で構成されてるのでは?と。
本当に怪しい話なんですが、今日ヨガをしていて、深く瞑想で入ったときに、自分の身体から「歌」が聞こえてきました。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 11, 2020
その時思ったのは全ての根源はリズムなんじゃないかと。
リズムの語源は古代ギリシャのリュトモスでモノや形を表している。
大学でやった波動関数も。https://t.co/YVodG1WGi5
そこに「環世界」という生物学の考えにも触れて、肌で世界を感じるカエルや、温度で世界を知る蛇や、超音波で世界を把握するコウモリは世界を全く違った感じ方で触れているのではないか?と。
環世界という考えが生物学である。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 11, 2020
生物によって知覚が異なるので、生物それぞれの世界も異なるという考え方。
ダニは視覚と聴覚がなく餌が来るのを18年間断食して待ったり、カエルは肌感覚で世界を認知する。
人間は意識があるからエネルギーで体感した環世界がありそう。https://t.co/wZHR5b6FnK
そして段々、呼吸とかイメージとかリズムとかそういったことで感じ取ることができるんじゃ?と思えてきました。
最近「呼吸」のパワーすげーなと思ってます。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 19, 2020
呼吸で意識を向けて気を入れ替えたり、呼吸で力を抜いたり、自然体なったり、呼吸を極めれば整いそう。
※言葉の世界(脳科学)で理解すると、脳の奥深くの無意識へのアクセスはそういったものでないとできないんですね。
脳の三層構造で深く入っていくこと(95%にアクセスして無意識の力を開くこと)が、結局芸術なりコーチングでしていること。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 16, 2020
そのためには大脳前皮質の言語フィルターを超えないといけない。それには次しかないらしい。
・イメージ
・リズム
・身体感覚
・(エネルギー)
言葉では奥に行けない。
そう考えると、探求の道って別に寺にこもるとか、通過儀礼(イニシエーション)とかをすることではなく、日常の中にあるんだな~と。
今日からまた1ヶ月禅修行。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 23, 2020
今日の気づきは修行は日常の中にあること。
もちろん、原理(哲学とか身体)とか修行(毎日の整える瞑想とか呼吸とかヨガ)もあるけど、生活世界の中にいれば特別なことをしなくても世界からフィードバックが来て修行できる。
何かを探し求める必要はなかったな~と。
ただ世界にオープンで学習する姿勢でいるというあり方なのではないかと。
必要なのは、無知の知で世界にオープンに学習する姿勢でいること。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 23, 2020
哲学の原初質問の
「我々はどこから来たのか
我々は何者か
我々はどこへ行くのか」
を問い続けること。
日々の生活世界の人間関係とか仕事とかで、明らかに修行の種は転がっているな~と。感謝の気持ち。
別にそれはどの道でも良くて、それぞれの道なんだな~と。
それが老子の道(タオ)ですね。
人それぞれ「道(タオ)」を通って、修行をしていくのだろうな~と。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 23, 2020
その道は人によりますが。
そのためにガイドできる人と、体得する修行をしていくこととかが大事になりそう~。
そう考えていくと、「~しないと!」みたいな束縛もなくて全てが1つの可能性だな、なんて感じになりました。
最近の感覚。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 24, 2020
自分はすごく「何か良くないと」という意志が働きやすくて
「う~~んこれはなんかな~」
と思いがちです
利他的な目的を据えた上でも飽くまで
「それも可能性の1つかな~」
って感じが増えました
善も悪も、悪があるから善があるのだな~と。
「してはいけない」
なんてないような
学習はただ感じることなんだ、と腑に落ちた瞬間。
最近ある素敵な生物学を探求してる方と少しお話しての気づきですが、「学習」は身体性を伴うことを通してしか起こらない気がしました。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 24, 2020
・修行(身体性)
・詩からのインプット(言葉が身体的、お経はリズム)
・生活の中の気づき
などなど。語らざることには沈黙しようかな(笑) on twitter
すると、この世はただ向き合っていくことなんじゃないか?と。
このあとの勉強会?があるので、瞑想で整えていたら、この世はやはり四苦八苦で辛いものだけど、それに対して向き合っていくしかない(解決ではなく)。それが勇気であって、ただ現象的なこの世界で変動し続けるけど、コアのエネルギー・情報体のやることは変わらないのではないか?という気づきが。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 27, 2020
感じを突き詰めていくと、感じがどんどん微分されていく感覚に。
瞑想の気付き。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 29, 2020
瞑想してて、肌がかゆくなったりしたときに、「かゆい!」とならないで、それを微分していく感じで「肌がつーっと部分で何箇所か起きると『かゆい』になるんだ」となると「かゆい」が解釈になりました。
何かスマホの通知が気になるときも、脳がかかっとなると気になってるのか〜と。
「感じ」によって、脳が積分した解釈を事実に微分していくと、実際の感覚になるイメージ。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 29, 2020
今までは「かゆいときも集中!通知気にしない!」と積分を積分で力みを通して対処してましたが、
「あ〜肌はこう感じてるんだな〜。脳がこうなってるんだな〜」
となると、不思議と手放せる。
全ては現象で、どの時代や世界に生まれてもただ「修行ゲーム」の中で、感情も幸せも不幸も天気の移り変わりで、お金も人間関係もただ所与の条件に過ぎないと。
「人生は修行ゲー厶」という感覚を得た。
— 榎本 知史@人間大好き (@tomofumienomoto) August 29, 2020
結局お金も人間関係も幸不幸も現象でしかなくて、その人に今見合った現象が起きてその中でその人がどんな学習や気づきを得ていくか?だけというか。その過程なんじゃないか?という。
ただその現象から見えた痛みに向き合っていくしかないのでは?という。
最近はこんな感じの自分で、そうなると別に何かに執着することが減ったような。そして執着することは悪いことでもないし、それが人間であり修行ゲームの波の中にいるだけだな~とそんな感じなのです。
このnoteを読んでも、感じないといけないんだ!とかそう考える必要もなく、ただそのままで感じてみてください。
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