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悟り日記「言葉ではなく感じること。」

こんにちは。榎本です。
最近の悟りをまとめたnoteを更新していこうと思います。(ほぼまとめですが)

最近、言葉で何かを探求する意欲がどんどん消えてきていて、ただ感じようかなという自分です。
きっと思考ってすでに過去のものなので、今ここに集中していることというか、言葉にするだけで近づくつもりが遠ざかっている感覚なのかもしれません。

キッカケは7月に山奥に宿坊に行った禅寺の旅から。

そこの御法話で「空」に関するお話がありました。

何か言葉で考えるというのは、空を語っているようで、天気を語ってしまうようなそんな感じを、瞑想やヨガを通して感じてきておりました。

そんな中で「意識と本質」という東洋思想を哲学的に言語化して整理する試みをした素晴らしい本についての勉強会を通して、言語化の極地のような本でしたが感じたことが。

言語にとらわれてしまって、表層意識的な考えに縛られてしまう自分でした。(意識と本質はこちら)

そんな時に昔から大好きな五十嵐大介さんの作品を読みました。
そしたらこんな言葉が。

「どうして本を読んではいけないの?」
「あんたには経験が足りないからよ。"体験"と"言葉"は同じ量ずつないと、」

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あなた達の世界は"有限"。
わたし達の世界は"無限"。
あなた達の言葉は、ありとあらゆる可能性を特定の性質に切り分けるナイフ。
自分達の都合のいいように世界を刻む道具。
わたし達は世界をあるがままに見る。
わたし達は言葉を知りながらそれを棄てることができる者。

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いちども空を見たことがない人が「晴れた空は青い」と言ったら、
言葉は間違ってなくてもそれはウソなんだわ。
あなた達の言葉は汚れてしまって悲しんでいます。

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わたしたちは全身で見て、全身で聞いて、
全身でニオイを嗅ぎ、全身で触れるんです。
自分の体に相手を受け入れて融け合うんです。

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そこで思ったのは、「意識と本質」で言う抽象化された普遍的本質と、実在的な個別的本質は「楽譜」と「音楽」のような関係ではないか?ということ。

いくら楽譜を勉強しても、実際の演奏を聞かないと意味がないですよね?
言葉で世界を探求するって、音楽を楽譜だけで探求しようとするものなのでは?と。

そして、深く瞑想に入ったときリズム?というか歌?みたいなものが聞こえて、自分たちの体はそういった歌で構成されてるのでは?と。

そこに「環世界」という生物学の考えにも触れて、肌で世界を感じるカエルや、温度で世界を知る蛇や、超音波で世界を把握するコウモリは世界を全く違った感じ方で触れているのではないか?と。

そして段々、呼吸とかイメージとかリズムとかそういったことで感じ取ることができるんじゃ?と思えてきました。

※言葉の世界(脳科学)で理解すると、脳の奥深くの無意識へのアクセスはそういったものでないとできないんですね。

そう考えると、探求の道って別に寺にこもるとか、通過儀礼(イニシエーション)とかをすることではなく、日常の中にあるんだな~と。

ただ世界にオープンで学習する姿勢でいるというあり方なのではないかと。

別にそれはどの道でも良くて、それぞれの道なんだな~と。
それが老子の道(タオ)ですね。

そう考えていくと、「~しないと!」みたいな束縛もなくて全てが1つの可能性だな、なんて感じになりました。

学習はただ感じることなんだ、と腑に落ちた瞬間。

すると、この世はただ向き合っていくことなんじゃないか?と。

感じを突き詰めていくと、感じがどんどん微分されていく感覚に。

全ては現象で、どの時代や世界に生まれてもただ「修行ゲーム」の中で、感情も幸せも不幸も天気の移り変わりで、お金も人間関係もただ所与の条件に過ぎないと。

最近はこんな感じの自分で、そうなると別に何かに執着することが減ったような。そして執着することは悪いことでもないし、それが人間であり修行ゲームの波の中にいるだけだな~とそんな感じなのです。

このnoteを読んでも、感じないといけないんだ!とかそう考える必要もなく、ただそのままで感じてみてください。

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