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大乗仏教の罠、あるいは言語ゲームを超えて。

こんにちは。榎本です。
今日は複数のnoteで直接的ではないですが語ってきた、解決するために言葉にしたことが逆に解決から遠ざかってしまう「大乗仏教の罠」とそれを乗り越えるためにガイドが必要であるという話を「哲学」の切り口でまとめたいと思います。

過去こんなnoteでそんな言葉の危険性はお話しております。

言語ゲームとしての哲学

まず哲学は言語ゲームである、とウィトゲンシュタインは言いました。
これは哲学のあり方を明快に示したものなので、これをもとに説明していきたいと思います。

この「ゲーム」というのは哲学でよく出てくる考え方で、ビデオゲームといった意味でなく特定のルールの上で為される行為となっていることの比喩です。

例えば、人間関係は「承認ゲーム」と呼ばれていて、人同士が結局承認欲求を満たしていく上で、ゲーム理論的に相互作用が起きるシステムとなっている、といった意味合いがあります。

さて言語ゲームとは何かと言いますと、宗教と哲学の違いで考えるとわかりやすいです。

「僕たちはどこから来たのか?」
「僕たちは何者か?」
「僕たちはどこへ行くのか?」

この問いは古くから繰り返されていて、その答えを探し求めています。
ゴーギャンの同じタイトルの絵画が有名ですよね。

宗教はこれに対して「物語」で答えます。例えばキリスト教の場合は次のようなものになります。

1 はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。そのようになった。
7 神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
8 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
(創世記 1章1-8節(口語訳聖書))

実際に真実かはわかりませんが、物語の良いところはわかりやすく、納得しやすいところです。
しかし問題としては、ダーウィンの進化論で一部聖書は否定された部分があるように、科学的に正しくない部分が出てくると、「本当に正しいの?」となってきてしまうことです。

哲学と科学はその源流は同じで、誰もが理解できる「概念(言葉)」で世界を説明しようとするとする営み(ゲーム)であるということです。

例えば、「世界は何でできているか?」という問いについては次のように論理展開がされていきました。

「万物の根源は水である」
(ターレス(前五八○頃盛年))

「万物の根源は空気である」
(アナクシメネス(?-前五二六頃))

「万物の根源は土、水、空気、火である」
(エンペドクレス(前四九三-四三三頃))

今から考えると不思議なものですが、これは最初の哲学です。
なぜかと言うと、もしこれよりも説明可能な=説得力のある説が出てきたら、哲学の場合はそちらに置き換わるからです。

論理と言葉というゲームの中では、より誰もが納得する言葉で説明していくことが重要なので、当時のことは正確にはわかりませんが次のようなやり取りがされていたのではないでしょうか?

「万物の根源は水である。なぜなら海から生命が生まれたからだ」
「いや、水ではなく空気ではないか?なぜなら空気は凝結すると水になるから。水よりも「根源」に近い。(当時は水の蒸発の概念がなかったとする)」
「いや、水は蒸発すると空気になるから、水も空気も土も火がそれぞれ根源なのではないか?」

このように議論を重ねていくことで、より説明可能な言葉に置き換わっていきます。ウィトゲンシュタインは、哲学自体ではなくメタに哲学を見つめ直していき、論理で概念を整理したことが偉大な功績です。

そして、それらの概念を進めていったときに、次のような今の科学の根底にあるものが生まれます。ここに錬金術が加わって、いろいろな実験で「金」を作ろうとしたときに、今の「元素」の概念が産まれてきたのです。

多様な物質の根底は、これ以上分割できない究極の粒子=原子( atom とは、分割不可能という意味)である
(デモクリトス(前四六○頃-三七○頃))

さて哲学はその後、外部に関する探求を科学に任せ、哲学は「意味」「世界」のような科学で取り扱えないテーマを深く扱っていくことになりました。

哲学の欠点

そのようにして言語ゲームを重ねて議論を進める中で大きな問題が生まれてきたと僕は考えています。

1.言語ゲームを重ねすぎて、抽象度と複雑度が上がり難解になった
2.上記の結果、万人のための理解としての哲学が、(頑張れば理解できるけど)万人から遠ざかった
3.そもそも「言語」というツールが適切ではなかった

3については疑問がある方もいるかもですが、初めはカント、そしてウィトゲンシュタインやその他の科学者の間でもトドメを刺されてしまいました。

まずはカントはアンチノミーという考えを持ち出して、世界の起源や神については証明不可能であることを証明しました。

1.時間と空間に関する宇宙の限界
2.全ては分割不可能な原子から構成されている(それに対して、実際にはそのようなものは存在しない)という理論
3.普遍的な因果性に関する自由の問題
4.必然的な存在者の実在
(純粋理性批判)

次にウィトゲンシュタインは次の有名な言葉で、そもそも言語ゲームである哲学の特性があるが、言語には限界=語り得ぬものがあるぜ、というのを体系的に証明しました。

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
(論理哲学論考)

哲学と袂を分かった科学でも実は同じような結論に達しています。

ハイゼンベルクは、量子力学において量子状態を特定することはできないことを「不確定性原理」「ハイゼンベルクの原理」として証明しました。

またフランスの数学者のアンリ・ポアンカレは、間接的な証明として測定不可能な物質「ダークマター」がないと、宇宙を説明できないことを発見しました。その質量は9割ほどで、実際僕たちは1割の世界で生きているということになります。

さて哲学の問題としては、そもそも言葉で説明できることはないことの上に、説明できることは非常に難解になりすぎてしまい、かなり窮地に立たされてしまっております。

大乗仏教の罠

問題はそれだけではありません。宗教の世界に戻ると宗教では、物語で説明していたのは「あえて」の戦略だったのではないか?と僕は思っております。

なぜなら宗教では教祖が悟る=言葉ではなく、体感として真理を発見しています。(怪しい新興宗教は別ですが、釈迦やイエス・キリストのコンセプトを読み解いていくと、今の科学でも真理に近いということが証明された例がございます。マインドフルネスとかはその一例ですよね。)

ただ、その悟った言葉は非常に難しい=言葉ではそもそも伝えづらいので、物語としてまずは間口をいろいろ広げて興味を持ってもらって、その中で修行を通して悟っていってよ、といった戦略だったのではないか?と思うのです。

これは脳科学でも間接的に言及はされていて、言葉では脳の中の5%の領域にしかアクセスできず、95%の領域=無意識はイメージやリズムや身体感覚でないと到達できないと言われています。

さて、しかしここでまた問題が起きます。ここでは仏教を例にしますが、仏教には「大乗仏教」と「小乗仏教」というのがあります。

「小乗」とは、小さな乗り物ということですから、
小乗仏教といわれるのは、
小さな乗り物のような仏教ということです。
(中略)
小乗仏教の場合は、出家した人は、
まず瞑想などの自分の修行をすることを優先して、
自分がさとりをひらくまでは他人を救おうとはしないからです。
(中略)
「大乗」とは、大きな乗り物ということで、
すべての人が救われる教えを大乗仏教といいます。
(中略)
小乗仏教の最高のさとりである阿羅漢のさとりを開いた人は、
人を救おうとします。
では、大乗仏教の自利利他とどこが違うのかというと、
大乗仏教の自利と利他は一体のもので、自分が幸せになると同時に他人も幸せになりますが、
小乗仏教の場合は、まず自分が幸せになってから、他人を幸せにしようとする点にあります。
これは大乗仏教が自分と他人を同時に幸せにするのに対して、
小乗仏教では自分の幸せが先で、他人の幸せは後ですから、
「自分が幸せにならなかったら人のことはかまっていられない」
「他人よりも自分が幸せになるのが優先」
ということになります。

ここでは大乗仏教の方が素晴らしいといった風に書かれていますが僕は小乗仏教が小乗仏教たる理由があると思っています。

大乗仏教の罠と読んでいるのは、悟っていない人が相手に教えを与えることは、逆に悟りを遠ざけてしまうリスクがあるからです。
最初のnoteにもあげましたが、再帰性の問題があり、それを誘発してしまうからでしょう。

僕は昔からこういう構造みたいなものが人より見えやすいのか、相手の「再帰性」にまつわる問題を見つけると、
「それを乗り越えてもっと前に進んでほしい!」
と余計なお世話が発動して、相手にそのブーメラン・矛盾を指摘してしまいます。

しかし、それを指摘された相手は飲み込むどころか激昂することが多いです。
それもそのはず、自分の心の奥深いところを指摘されてしまうんですから。

そしてその言葉が届かないのは何を隠そう、僕自信が
「相手に指摘してやろう!」
という「再帰性」問題を抱えているからです。

例えばキリスト教では、天国と地獄の考え方があり、初めは「悪いことをすると地獄に落ちる。天国に行きたいから良いことをしよう。」と、条件付きの良いことを行います。

しかし本質は、人はそれ自体が良いことをしたいという本性を持っているということでしょう。大乗仏教では、その本質を「天国に行けなくて地獄に落ちるから。」と全く本質と異なる形で伝えてしまうのです。
こういった誤認は他にも多く事例がございます。

真理に到達するためのガイド

さてここまでの話をまとめます。

・哲学は今や複雑怪奇
・さらに言語ゲーム故に言語の限界がある
・宗教は大乗仏教的な罠がある

その上でわかるのは、小乗仏教的な人のガイド役を見つけることかと思います。
大乗仏教的な人は自分自身がその罠にかかります、小乗仏教的な人を自ら見つけて教えを請うことが近道ではないかと思うのです。

しかしここでも困難なポイントは、スピリチュアル的な話になって怪しい+玉石混交で見抜くのが大変ということです。

しかし近道を見つけようとするスタンス自体が遠ざかってる気もするので、ご縁や出会いを大切にして、世界に開かれていればいつかは見つかるかも。。。。

相変わらず最後失速してしまいましたが、哲学の言語ゲームや大乗仏教の罠を越えた世界を一緒に見られるのを楽しみにしております。
※僕も修行の身です笑

ではでは~

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