見出し画像

人間のあり方の系譜学-ポストルネサンスの生き方-

こんにちは。
今回は時代に応じて人の意識や生き方がどのように変わってきていて、今後どのように生きるべきなのか?
という壮大なテーマについて、僕なりにいろいろな本で得たことを統合してまとめたいと思います。

最初に注釈しておきますが、それぞれの時代において勝ちパターンのような生き方をまとめますが、この記事は何か生き方はこうするべきだ!という風に押し付けるものではありません。

人生攻略本みたいなことを書く人がいますが、人生をゲームに例えるとエンディングは「死」であり、攻略の結果は「死」以外ありえないからです。
かなり長文になってしまいましたが、是非ご一読・ご感想の共有いただければ嬉しいです。

「人間」のはじまり

「人間とはなにか?」ということに対する定義は僕の中ではまだまとめられていないです。

しかし、人間を人間足らしめている重要な要素は「意識」と思っております。
「意識」ということを考えていくと難しいですが、これによって「認知」が産まれ、人は推論したり、判断したり、解釈することができます。

ハイデガーは人を「可能存在」と呼びました。
常に可能性を考え、新しい欲求が呼び起きたり、推論をしたり、判断をする存在ということです。

つまり、意識の本質は「設計」です。何か目的や可能性に対して、「設計」して実現しようとする「設計ベクトル」が存在するんです。

これによって人は、道具によって他の動物に足りない部分を補っていきます。

・爪を補うために、刃物
・加工や料理のために、火
・思考やコミュニケーションのために、言語

これは人が意識を持つことにより、可能存在として発達してきたと言えます。

「神話」と「説明」の時代とあり方

こうして生まれた人の最初の時代は「神話」による「説明」をするあり方でした。

生まれたばかりの人にとって、世界はわからないことばかりです。
人には「恐れ」という原始的で動物的な感情を持ち、それによって生存を図ってきたため、自己保存をしようとするベクトルが備わっています。
それに「意識」の働きが加わることで、「説明」することで世界と折り合いをつけていきます。

・台風→強い風や雷で怖い→「神がご機嫌斜め」と思う
・地震→大きな揺れで驚く→「神がお怒り」と思う
・日照り→雨がなく生きていけるか不安→「神が我々を無視している」と思う

どのように「説明」したのか?の確証はありませんが、いずれにせよ「神」という<絶対理由>を想定することで現象を説明して、感情と世界を理解しようとしました。
これによって生贄など、今から考えると時代錯誤で無意味な取り組みも行われてきました。

「説明」という意識の機能がかろうじて生きていますが、全てを「神」で説明するのでは、「人間中心」でなく「神中心」であり、主体性があるとは言えません。
しかし人は主体的に生きることを「意識」によって運命づけられています。よって人は、「神中心」から「人間中心」へと歩み始めます。

ここでのあり方:
最も納得できる「説明」を用意すること
ここでの限界:
その「説明」では世界を正しく理解できず、実際現実も変えられない

「競争」と「暴力」の時代とあり方

最も説明不要な「力」は「暴力」です。
他のあらゆる力を持っても、自己保存=生存というベクトルを持つ人間にとって「暴力」は絶対的な力となります。
※現代社会は、国家が暴力をコントロールすることで成立しておりますが。

「意識」が作った「言語」によって徐々に、自己と他者を切り分けてしまうようになった人間は、原始的な欲求もまだ残っているため「暴力」によって生存手段を持つようになります。

よくわからない「神」という説明でなく、「力」という実態的なものをヨスガとする時代です。
ここで初めて「人間中心性」を獲得し、主体的に生きていく姿勢が生まれたことは大きいです。

しかし、現代にいる僕たちからすると自明ですが、「暴力」が中心ロジックの世界はあまりにも生きづらいです。
一部の支配体制になってしまいますし、その支配も時間が経てば終わってしまいます。
よって人は、「虚構」と「法」という武器を獲得します。

ここでのあり方:
「力」をつけること
ここでの限界:
常に自分たちのその行為によって、自分たちが不安から消えない生活になる。(※人は結局衰えて力はなくなる)

「組織」と「法(契約)」の時代とあり方

そして、キリスト教や帝国など、人間の認知能力の限界を越えた時代が訪れます。「宗教」や「血縁(王政)」、「国家」といった大きな物語を主軸としながら、「人間」は強力な力を持っていきます。
(※これがホモサピエンス全史でいう「虚構」という新しく人間の「意識」が発明した「道具」です。)

ペンは剣よりも強し
エドワード・ブルワー=リットン

という言葉あがりますが、この時代はまさに「大きな物語」=「情報・思考・言論」が力を持ってきたと言えます。

いかに個人が道具を使って「暴力・競争」の意識で力をつけても、組織的に力を持つ人間には勝てません
ここでものを言うのは、多数派・組織を形成する「物語」の強さと、その物語のつくる序列の中で上に登ることです。

この「法」で重要なのは、人に「契約」という概念を与えたことです。
「暴力」の時代になかった法・規律は契約を生み出し、契約を守るということで社会性を初めて獲得してきたと言えます。

つまり「暴力」を規律という「法」によって管理したことが最大の功績と言えます。ここでは権力は腐敗はしますし、理不尽な規律もありますが、「法」による管理がされたということが大きいです。
またそれによって、タイムスパンが長くなりました。暴力の時代での人のタイムスパンはせいぜい寿命ほどですが、「物語」に支えられた人間のスパンは長く繁栄が続きます。

しかし、過去のキリスト教の「十字軍」や現代の官僚組織を見ていて、ある「物語」に従いそれによって支配されて生きることは、「人間的」でなく窮屈であることがわかると思います。
また、その「物語」に異論を唱えるものがあれば、「法」によって徹底的に排除されます。(神を疑うようなことは処罰の対象ですし、忖度が起きるのもこのメカニズムでしょう。)
人はここに来て「意識」の力を最大限に開放します。

ここでのあり方:
「物語」に従い、「物語」のつくる「序列」の上に登ること
ここでの限界:
権力の腐敗、自分と違う「物語」に対する差別・支配

「自由」と「合理性」の時代とあり方(現代もこれ)

ルネサンスの時代に「人間中心性」を完全に取り戻そうとする意識が起きます。そしてこの意識はとても強力なので今も続いています。
「宗教」や「血縁」のような「人間中心性」から外れたものを排除して、「言葉」と「論理」によって人間の人間による人間のための時代が訪れます。

これのはじまりはデカルトです。
デカルトが徹底的に論理的なスタンスで「人間起点」(=人の意識起点)で考えるということをスタートしました。

ここから科学技術もどんどん進歩していきます。
「組織・支配」という偽りの「物語」ではなく、論理によって脱構築を進めていきます。
これによる功績は、人種・宗教・性別・血縁による差別を撤廃した(厳密には現在もこのリベラルの波が進んでいるので、「撤廃している」)ことでしょう。
今後もこのリベラルの波は止まることはないでしょう。徹底的に「合理主義」を貫けば、その答えが自明であるためです。

人間の権利や道徳について推論を進めていけば、人の才能を平等に評価して社会に貢献してもらったり、成果を出せる人は評価されて然るべきという、市場原理主義や資本主義の「自由主義」「リベラル」の考えが浸透するのが「合理的」だからです。

また、情報技術の発達でコンピューターが開発されたことで人間らしい機能とは何か?がさらに鮮明化されました。
暗記や詰め込み型の教育ではなく、問題を解決していくことに人間らしさの本質があるということがわかってきたんです。

上記の流れで、産業が発達し急速に文明化して「物質的に」豊かになっていきます。富の総量も間違いなく増えてますし、医療の発達で平均寿命も伸びてますし、殺人率のような指標も確実に改善していきます。
今まで血縁によって決められていたものもなくなり、「学校教育」による人の平準化によって、識字率も劇的に向上します。

しかし、人は物質的に豊かになりましたが、幸福になっていないというデータもあります。また、資本主義が進むことで結局格差が広まってきてしまっています。環境破壊も進み、人間がこのまま人口を増やすことで資源が枯渇するという話まで出ています。
「主体」・「客体」という論理の分別する力によって、人間対環境に始まる二項対立が至るところにでてきます

精神的な意味では、「組織・支配」の時代では「物語」が残っていたので、人生の意味をそこに投影することができました。しかし、徹底的に論理的な態度を取ることで人は「意味」まで手放すことになりました。
「成功」という価値観が浸透しますが、「成功」が人を幸せにしない、ということも鋭い人は気づいてきています
結局人は死ぬからです。

つまり意識で「設計」することで解決する問題は解決されましたが、「設計不可能」な問題が山積しているんです。これについては僕の前までのnoteをご確認ください。

ここでのあり方:
自分で考えること(意識の力を最大化して、身体や無意識をコントロールすること)
ここでの限界:
論理と意識の限界(設計不可能性)。「物語」の欠如。

ここまでで世界が悪化しているとは言いませんが、本当にこれが完全な形なのか?を考えたいです。
この「あり方」のまま究極的に進めて、AIや電脳化、生命科学など人間が未踏の地に歩んでいくという道も残されています。(ホモデウス然り)
しかし僕は、人間の「脳」という機関だけで考えて出てきている上記のような論理で世界を進めるべきなのか?を今一度考え直すタイミングにあると考えております。

「非線形」と「身体性」の時代とあり方(今ここに変化している)

「自由・言葉」のあり方はあまりに強力で、人を物質的に豊かにしてきましたし、そのあり方でこのまま技術革新を進める未来さえ見えます。
しかし鋭い人は、「なにか違和感」を感じていると思います。「自由・合理性」の時代に達成した成果はあまりにも大きいですが、それは本当に「人間的」と言えたのか?
それによって出てきたのが、「非線形」と「身体性」のあり方です。

「自由・言葉」のあり方は、脳の意識という機関を過信しすぎていたと言えます。人は「身体性」を持つ生き物です。そして身体性を通して線形的な思考の不都合を越えて、矛盾をアウフヘーベンしていけます。

主体・客体という区別を越えて、SDGs・持続可能性という考えが今出てきています。人間対環境ではなく、人間も環境の一部と東洋哲学的なパラダイムで見ていきます。

「自由」「合理性」の時代に完全に既存の物語が棄却されてしまい、「意味」を手放してしまいました。
しかし人は意味を考えずにはいられない存在です。
この時代では前の時代に作った「意味らしきもの」すら、全て一つのあり方・可能性であると徹底的に相対主義になります。

そのためこの時代に浸透しているのは「反哲学」「現代哲学(非実存主義)」の考え方です。
前時代の「アンチテーゼ」としては機能しますが、「真善美や人生の意味なんてものはない」という考え方だけで、新しい指針を示すほどの力強さはありません。
東洋哲学は、人の欲望を完全に棄却してしまうことに欠点がありました。

この時代では悟りの境地に到達するか、さもなければ人な常に意味を求めます。そして、意味を求めないよりは「無意味を求める」生き物です。
「価値観は人それぞれ」という言葉で代表されるような相対主義的で、ある種ニヒリズム的な観念がつきまといます
それでは前時代になくなった精神的な豊かさを完全に取り戻すことはできません。

人の模索する道はないんでしょうか?

ここでのあり方:
人間の意識の限界を知ること。相対主義。東洋哲学。
ここでの限界:
ニヒリズム

「真善美」と「本質」の時代とあり方(ポストルネサンス)

そして、今一度僕が提唱するのは本当の意味での「人間性」を取り戻すことです。ある種「悟り」とも言えるあり方です。

徹底的に相対化されて軽視されてきた「真善美」や「本質」を今一度前時代で獲得した身体性によって取り戻すんです。
自分の中に存在意義を見出し、人の本来持つ善意の力で社会へ貢献していく。そんな人間的なあり方をしていく時代です。

人間は「可能存在」のため欲望があります。資本主義は、人間の欲望に応える仕組みが実にうまく機能しました。
しかし、それは人が「良い」欲望も持つ場合のみです。
資本主義の失敗から、欲望を相対主義の中に減却していくことは、ただのニヒリズムです。

「曼荼羅」はご存知ですか?
上記に添付した絵のことですが、「曼荼羅」には目的を持ちながら現在も常に完結しているという「意識」レベルで考えていると矛盾した概念の意味もあります。

目的というものを持つと、常に現在は「目的を達成していない状態」=「現在が不足している」となります、こうした構造にあるので前時代のあり方ではニヒリズムに陥るリスクがありました。(結局死というゴールがあるため)
しかし、曼荼羅的なあり方でミッションを持ちながら常に完結している状態を保つこと(死によるニヒリズムに飲まれないこと)がこのあり方で重要です。

自分の中の「本質」に気づき、「みんな違う」という相対主義を超えて、元来人が持つ「真美善」のベクトルによって、〈自己了解〉(世界を〈了解〉し、自分と世界に本質的に折り合いをつけること)を通して、進んでいくことができるはずと僕は信じています。

ただし、この状態にすべての人が到達できるのか?は考えないといけません。
世の中を見ていると、まだ自分で考えるという地点に立脚せず自分を殺して生きる人や、恐れの感情ベースで「成功」を主軸に生きたい人、相対主義のニヒリズムに滞って「真美善」の自分なりのベクトルを見いだせていない人がほとんどです。
ある主この段階は、自分の中に〈宗教〉を持つ段階です。ここに至れる人を増やせるのか?は課題として残ります。

ここでのあり方:
曼荼羅的なあり方。人間性を取り戻す。
ここでの限界:
すべての人が「悟り」に至れるか?

さいごに

以前から第2のルネサンスとして、今一度「人間性」を考え直さないといけない、と考えてきました。

僕自身が、「人間回帰」=今一度、みんなが人間らしく生き生きと生きられる社会をつくる、というミッションで生きています。

このミッションが降りてきたのは、きっとこれまで読んだいろいろな哲学書や、時代の流れを見ての考察からです。
そしてその考えがようやく(かなり拙いですが)文章としてまとめることができました。
僕のミッションは最後のあり方の人を増やすことです。その人がどんな「真美善」の考えを持っていても、本質に根ざした社会に貢献し自己実現もするフェーズになれば世界はより良くなると信じております。

この考えは、僕がいろいろ「人間とはなにか?」ということを見ていく中で得た知見を「統合」したもので、歴史学や人類学的にみると不整合のある箇所もあるかと思いますので、そちらは是非ご指摘ください。

長文を読んでいただきましてありがとうございました。
少しでも最後の時代やあり方が到達するように尽力していきたいと思っております。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?