見出し画像

快楽と意味~語りえぬものについては、体感しなければならない

こんにちは。榎本です。
今日は哲学的な話です。

反哲学。実存から反実存へ。

最近の現代哲学は「反哲学」なんて呼ばれています。
それはウィトゲンシュタインの有名な次のセリフが皮切りになった認識です。

語りえぬものについては、沈黙しなければならない

つまり、語り得ぬこと=形而上学的な人生の意味とか真実なんて結局ないよね、そもそも実存(本来の意味・イデア的な存在)なんて幻想だから非実存(目に見えるものはわかるもの・語り得るもの)についてだけ考えようよ。

つまりそれまでの哲学の主題だったプラトンのイデアから始まる、
・本当に正しいもの
・真善美
・世界の成り立ち
みたいなものをずっと考えてきてたけど、哲学は「言語ゲーム」だからそんなことはわからない(語り得ぬこと)からそもそも考える事自体意味がない。ウィトゲンシュタインの功績は哲学の言語ゲーム(言葉で概念を説明していくという取組)という本質を見抜いて、言葉の限界(語り得ぬものが出てくること)を証明したことです。

快楽と意味

でも人って「意味」を考えざる得ないですよね?

「人生の意味ってなんだろう?」
「なんで生まれてきたんだろう?」
「自分が本当にしたいことってなんだろう?」

みんな一度は考えたことがあるはずです。
人間は意味からは逃れられないけど、反哲学・非実存主義の人たちは
「そんなもの人によって違うし、考えるだけ無駄。目の前の起きてることだけが真実なんだから、実際的なものだけに集中しようよ。」
となる訳です。

そうなると彼らが信じるものは「快楽」です。
快楽に意味なんて必要ありません。だって気持ち良い・楽しい・美味しいそれだけでいいじゃん。
人生の意味とかくだらないよ。

というわけです。実は僕も大学の時に非実存主義的な快楽主義の考えに傾倒しました。

経験機械の思考実験

こういう考えになると生まれてきたのはもう仕方ないから、死ぬまでできるだけ楽しく生きれるのがいいよね、ということで資本主義とすごくマッチします。とにかくお金持ちになれば快楽をできるだけ味わえるので。

ただ僕がこの考えを改めたのはロバート・ノージックの「経験機械」の思考実験を知ったからです。それはこんなものです。

重要なことは、幸福がなんであるかではなく、幸福感が得られるかどうかです。幸福感というのはあくまでもその人の気分や気持ちなので、脳の状態によってつくり出すことができる、と最近の脳科学者はいうでしょう。
(中略)
そうした幸福感をつくり出す機械が実現できたとしましょう。自分が望むどんな経験も与えてくれる機械につながれたあなたは、どんな夢も見ることができる。思い通りの人生がこのなかで展開される。ただし、一度セットしたら取り外しは不可能です。

大半の人がこの自分の理想通りのことしか起きない快楽にずっと浸れる機械に接続するのは嫌というと思います。(非実存主義・快楽主義なのに!)
彼らにとっては理想のマシンだと思うのですがなぜでしょうか?(「いや、俺は接続したいよ」って人はすいません(笑))

ここで思ったのは人は実存からは逃れられないし、魂・ゴーストがそれを求めてやまないのでは?と思うのです。

語りえぬものについては、体感しなければならない

さらに僕が思うのは、語り得ぬものには体感しなければいけないということ。つまり言葉で理解できないものは身体性を持って解決するしかない、ということではないか?ということです。

ウィトゲンシュタインが言っていたのは、あくまで次のようなことではないでしょうか?(僕の解釈です)

・語り得ぬものがある:言葉には限界がある。言語ゲームを重ねてきたからわかりました。
・それは沈黙せざる得ない:言葉の限界について言葉で解決することはできない。(だから、違い手法を使うしか無い=体感とか)

人は実存主義的であらざるえないと僕は思っております。
どこまで非実存的なことを頭で考えていても、あなたのゴーストはそれを許しません。

画像1

思うに、言葉や論理でだけ物事を解決したい人ほど、物事を単純化したいので非実存主義・快楽主義を持ち出すのではないでしょうか?
※これはニーチェの言う「力への意志」であり、人は意味を求めて止まないので意味を求められないくらいなら「無意味を求める」とはまさにこのこと。詳細は説明は長くなるので割愛。

つまりウィトゲンシュタインは言葉の終焉を予期したのではないでしょうか?
そしてそれは言葉の終焉=だから諦めよう・意味なんて考えるのは無意味という意味を求めるのではなく、ウィトゲンシュタインの論理性を鑑みれば、ただ事実として「語り得ぬものには沈黙せざる得ないぜ」って言ってただけじゃね?と思うのです。

そうなると残された僕たちの選択肢は<霊性>や身体性・エネルギー、スピリチュアルにしかないのでは?というのはインテグラル理論でも言われていることですが、これ以上は怪しい話になるのでここまでにしておきます。

さいごに

僕はあくまで非実存主義には否定的な立場です。
そして僕がいう「本当にやりたいこと」というのはこのゴーストであり、身体性であり、<霊性>という背景があります。そういったアプローチをしているため、言葉だけでそれを見つける行為「自分探し」や「自己分析」が意味がないと思っております。(そもそも語り得ぬものだからです)

そんな哲学的背景も方法論に取り込んで、多くの人が実存を発見できることを望んでおります。それは僕が人間らしさは実存への意志だと思うのと、みんなが人間らしく生きられることが僕の実存だからです。

「本当にやりたいこと」を見つけたい方向けにオンラインコミュニティを初めていこうとおもってます。興味がある方は是非。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?