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「正しさ」は一つじゃない~「正義感」により怒りのスイッチが入ってしまう貴方へ~

「正義感」は諸刃の剣

「正義感が強い人ほど損をする」。50年生きてきてようやく最近たどり着いた結論だ。正確には「正義感の強い未熟者は損をする」。

「義憤」というカッコいい言葉がある。間違っていること、不正をただそうという正義感溢れたまさに「正義の味方」の持つ想いである。しかしこの「義憤」を正しく用いて現実の世の中を変えた人はどれだけいるのだろう?「正義感は諸刃の剣。」「正義感は取扱注意。」なぜなら「怒り」とは実に厄介な感情だからだ。未熟モノが振りかざせば相手も自分も傷つける。

そもそもの大前提として、「正しさ」というのは絶対的なものではない。物理の相対性理論と同じで、すべて見ている側のモノサシなのである。「え?サービス残業とか絶対ダメでしょ!?」と言うなかれ。程度や場合によっては肯定する立場もあるという現実がある以上、その現実を受け入れる余裕が必要なのだ。

“I‘m OK, You are OK.”であれ

近頃コーチングなどでもてはやされている「自己肯定感」は人生においてとても重要なものであるが、「他者肯定感」も同じだけ重要である。
“I‘m OK, You are OK.” でなければ、どんなに自己を肯定していたとしても、他者には嫌われるのだ。「嫌われる勇気」も時には必要だが、嫌われたら最後、自分を苦しめる。

特に、組織においてそれは致命的であり、芸能人とてマスコミに嫌われたら業界から抹殺されかねない。「嫌われる」とは、かくもリスキーなことだ。

頭がよく正義感の強い貴方は、「あれ、これっておかしくない?」「この方が絶対いいに決まってる」ということにすぐ気づいてしまう。そして、そのことを意見せずにはいられないのだ。なぜなら社会に出るまでは、大方の場面では「正」か「誤」かの判断だけで貴方は優秀だと評価されてきたから。「正・誤」以外の座標を見失って、正しさがすべてだという「正義感」のかたまりになっている。

そして、意見が通らなかったとき、「え?何で?おかしくない?あなた頭おかしくない?ねえ、頭使ってる?」・・・とは言わないまでも、それに近い、相手を否定するような言い方をしてしまう。なぜなら貴方は「正義のために」戦っているからだ。そしていつの間にかそんな自分に酔ってしまって、止まらなくなって、気が付いたら完全に相手をノックアウトしてしまっている。可哀想にお相手は傷だらけだ。

貴方は「よっしゃ、言ったった。」と満足するのも束の間、間もなく貴方は「いつも揉めてる○○さん」「いつも噛みついてる○○さん」と陰で評判になっている。ピュアな貴方は「嫌われたって仕方ない」「私は間違ってないもん」「いつか私が正しかったってわかるはず」と、どんどん同じことを繰り返す。

そして、いつの日か「自分は間違った事はひとつも言っていないのに、どうしていつまでも認められないんだろう?」という疑問に突き当たるのだ。

残念ながら、多くの人は貴方の正義の内容を聞いていない。貴方の「戦う姿」を見ているだけである。

正しさよりも優しさを

私がいつも通うお寺のご住職はよくこうおっしゃる。
「仏さまは理由は聞かれない。」
仏さまは、どんなにもっともな理由でも、どんな真っ当な正義によるものでも、怒っている者は怒っている者としてご覧になる。ということだ。

神様、仏様、世間様である。世間様も貴方が怒っている理由など聞く耳を持たれないのだ。

相手が聞く耳を持たれなくなれば、ますますこちらも「何で分かんないかなあ!」と怒りモードに突入する。怒りの感情は最も危険な感情だ。その感情に流されているとマトモな論もマトモに話せなくなる。そしていつの間にか持論を主張しているはずが、理解しようとしない相手を無意識に攻撃してしまう。

若かりし頃、「正しさよりも優しさを」という言葉を聞いたことがあるが、まったく馬の耳に念仏だった。「正しさ」以上に大切なものがあるか。優しさをねだる甘ったれた精神が気に食わんと思っていた。

「情けは人のためならず」言い尽くされたこの諺の真意はここにある。優しさは相手のために施すものではない。いずれは自分に返ってくるから、自分のための行為だ。という意味である。この解釈も、かつての私は気に食わなかった。「下心で優しくするなんていやらしい」ではないか。「私にはそんなことできない」と粋がっていた。

しかし、それは教訓というよりもアドバイスだったのだ。優しさをねだる人には優しくしてあげればよかったのだ。「スマイル0円」なのだから。嫌われるよりよっぽどお得な生き方なのだから。

ちなみに、「お得」という響きも嫌いだった。しかしながら、損得勘定に嫌悪感を感じて、常に正義感という諸刃の剣を振り回したその結果は、「嫌われ者」「変わり者」「問題児」「社会人失格」など色々と悲劇的である。結果的に、お得に、穏便に、優しく生きた方が、確実に望む結果にたどり着きやすい。

「北風政策」か「太陽政策」の違いは子供の頃に童話で読んでいて、意味は分かっていたのだが、いざ自分が「なぬ??」ってなった時に、太陽政策を採用できるかというのは、普段からの ”You’re OK” の感覚、相手の大切にしていることを尊重する感覚の育成にかかっている。

「他者肯定」の根底には「自己肯定」が欠かせないのかもしれないが、それ以前に、自分だけが正しいという思い込みが、そもそも「正義感」の名を借りた「怒り」のスイッチを押してしまうのであれば、「人間肯定」というか、「人間信頼」というか、「なんとかなる」「最後は上手くいく」「万事良好」の宇宙の摂理を絶対的に「信頼する」心の育成が普段から必要になってくる。

この宇宙の摂理を神仏のお力と置き換えて考えれば、「祈り」とは「期待」ではなく「信頼」であり、願望実現から病気平癒に至るまで、「望ましい状態」に至るためには、「否定」ではない「肯定」の意識と、「本来の望ましい状態」へ至るという「信頼」の上での平和的な解決が大切なのである。

病気についてはまた後日ゆっくり触れてみたい。

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