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noteで『歳時記』 ~八月~

【はじめに】
この記事では、『noteで歳時記』と題して、noteの機能を活用した歳時記を私(Rx)が編んでいます。今回取り上げるワードは『八月』です。

基本パラメータ

八月【はちがつ・はちぐわつ】
・初秋(陽暦) 時候

《 成分図 》

視覚2、嗅覚2、聴覚2、触覚1、味覚2、連想力5

◎解説

( 参考動画 )2021/08/15「夏井いつき俳句チャンネル」
 【季語】「八月」という季語を分析してみましょう

◯ 「一月」から「十二月」まで季語となっているが、『◯月らしさ』を出すのが結構大変。一月や六月、十二月などはまだ“らしさ”を出しやすいけど、十一月などは“らしさ”を出すのが意外と難しい。

◯ 12種類ある「◯月」の中でも、『八月』には、他と違った難しさがある。その理由は大きく以下のとおり。

① 季節の変わり目(晩夏 → 初秋)の空気感

一般的な『歳時記』は、太陽暦(二十四節気)を基準に季節を分けていて、例えば『春』は「立春(2月3~4日)」から「立夏(5月5~6日)」の前日までを指している。

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それなので、二月、五月、八月、十一月は、上旬で季節の変わり目(四立)が訪れる点で、季節の変わり目を含んでいるという微妙なグラデーションを意識しなければならない点が難しいのです。

もちろん、八月上旬に訪れる「立秋」は、『暦の上では』の代表格といった感じで、一般的な体感では『夏本番』なのに『秋の気配』を感じ取らなければいけないという点でも、他より更に難しさが増している令和の時代です。

ここで、太陽暦が導入された直後の明治時代(昭和より前)の俳句を一句、ご紹介いたしましょう。正岡子規の句です。

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『八月の太白低し海の上』 正岡子規

「太白(たいはく)」を中国での金星の異名だとすると、情景が一気に浮かんできます。秋は、空気が澄んで「星空」に関する季語が多くありますが、そんな季節を先取りするような初秋の夜空と、まだ昼間の熱を帯びた晩夏の体感を『八月』という季語によって巧く描いています。

本来(大正以前)の『八月』という季語には、こうした季節の変わり目の「本意(ほい)」が含まれていました。

② 「お盆」の魂の行き来の空気感

伝統的には、旧暦7月15日にあたる「中元節の日」に行われてきた「お盆(盂蘭盆会)」は、明治に入って太陽暦に変わって、日付が分かれました。

(1)新暦7月15日
  東京などの大都市圏や、農繁期を避ける一部地域
(2)新暦8月15日(月遅れ)
  ほぼ全国的に多くの地域。季節感をあわせるためひと月遅れに。
(3)旧暦7月15日(旧盆)
  沖縄・奄美など。年によって太陽暦での日付は異なり、
  8月8日から9月7日の間のいずれかの日。

いずれにしても、大体1ヶ月のズレが生じることで、太陰暦7月はおおむね太陽暦8月に合致します。そして「お盆(盂蘭盆会)」は、迎え火/送り火などを通じて、祖先の霊を祀り、魂の行き来を意識する行事として全国的に定着しています。

もともと一年の中でも、魂の行き来を身近に感じる季節だったのです。

③ 「戦争」や「終戦」という空気感

そして、戦後を生きる我々にとって「八月」が帯びている宿命というのが、『戦争』であったり『終戦』であったりといった昭和前半の一連の出来事と、それを受けて戦後を生き抜く人々の追悼の行事たちです。

先の大戦(1945年に終結した太平洋戦争)に関する8月の追悼行事として、

8月6日(午前8時15分) 広島原爆の日
8月9日(午前11時2分) 長崎原爆の日
8月15日(正午12時0分) 終戦記念日

※8月ではないですが「6月23日:沖縄慰霊の日」も併記

は、NHKでも中継され、地域によっては行政無線等でサイレンが流れます。

ぜひ、日付や時刻がうろ覚えで、テレビやサイレンなどを通じて、『あっ、今日だったか』と毎年思う方は、今一度、上の表で確認していただければ、それも一つの追悼、歴史の伝承となるのではないかと思います。

特に2・3つ目に関しては、他の「◯月」には無い空気感であり、このことが宿命のように「本意」を塗り替えてしまったため、極めて難しくて複雑な季語として、戦後世代に課されることとなった歴史的経緯があるのです。

勿論そうした意味を含まずに俳句を詠んでも良いのですが、多くの詠み手が『八月』の本意が2~3つ目にあると考え、不必要に『深読み』をされてしまうというリスクが高いことを承知して頂く必要があろうかと思います。

◎例句

夏井組長の動画で紹介されていた、戦後世代の『八月』の例句をまずご紹介しましょう。

(1)『八月を送る水葬のやうに』 川崎展宏

『八月を送る水葬のやうに』 川崎展宏

川崎展宏(てんこう)さんは、1927年生まれで、大学教授・国文学者の傍ら俳人として『古典文学からの本歌取りを得意』として歳時記にも載るような名句を多数残されました。

背景には、広島県は軍港・呉市の出身で、父親が海軍士官だった経緯があるものと思われます。戦後、国文学の道に進まれる訳ですが、代表作である

『「大和」ヨリヨモツヒラサカスミレサク』 川崎展宏

同様、昭和生まれで戦後を生きた世代の方の『八月』観を色濃く表した作品だと思います。『八月を送る』という前半部分の動詞には、「見送る」とかの意味と「過ごす」といった意味が含まれているようにも感じます。

そして、「水葬(すいそう)」という言葉に、日本海軍の遥か太平洋の戦陣に散った方々への追悼の思いが込められています。別の方から、もう1句。

(2)『八月は日干しの兵のよくならぶ』 筑紫磐井

『八月は日干しの兵のよくならぶ』 筑紫磐井

筑紫磐井(つくしばんせい)さんは、戦後1950年生まれの俳人で、一橋大学在学中から俳句に親しみ、科学技術庁の官僚と勤めながら力強い作風の俳句を披露してきました。2021年春には「瑞宝中綬章」を受章されています。

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この句で妙なリアリティと恐怖を感じさせるのが『日干しの兵』という表現と、『よくならぶ』という言い切りです。更に言えば、上五の助詞を「は」と特別扱いして『八月』という季語を立たせている点も素晴らしいです。

ここから、更に若い世代の「プレバト!!」俳人の八月の句を見ていきます。

(3)『八月の海を置き去るバイクかな』 村上健志

2018・2019年と2年連続『八月』の句を読み、名人として昇格/☆獲得を果たしている村上名人。

2018/08/30『八月の海を置き去るバイクかな』 名人5→6段
2019/08/22『八月の機内に点る読書灯』 ☆1→2つ

どちらも、『八月』という季語の宿命を纏いつつも、やや距離を置いた形で8月の日常を切り取っています。

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1句目は『バイク』という小物と、『八月の海』という明るさ。2句目は『読書灯』という小物と、『八月の機内』という暗さを描いています。

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そして、2021年8月に『永世名人』として連続で掲載決定を決めた、東国原名人の作品を最後にご紹介しましょう。

(4)『音なき音や八月の遠花火』 東国原英夫

『(遠)花火』も季語ではあるのですが、『八月』という大きな季語の弱い視覚や聴覚を相互に補い合う絶妙な季重なりです。なおかつ『音なき音や』と敢えて「聴覚を消す」技まで使っての作品です。

そして、ここまで記事を読まれた皆さんでしたら、『八月』という季語が、他の七月や九月ではなく『八月』としたかった作者の思いが感じ取れることと思います。

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そもそも『花火』を打ち上げるのには、夏の鎮魂の思いを含むケースも結構あろうかと思います。そういった年中行事の背景をうまく17音に収めているように思いました。

( 補足と私感 )

ただ、注意すべきは、現代を生きる我々にとっては半分「虚」な側面もある『八月』という季語の持つ経緯について、『実際にそうした時代を生きた人々』が居るということを忘れてはなりません。

勇者がドラゴンと戦う世界は完全に「虚」ですが、先の戦争での出来事は、空想の世界ではなく、百年足らず前には「現実」だったのですから。

ここで一つ、NHKのラジオで語られた本意、厳しい目をご紹介します。

☆NHK文化講演会 2019/04/21
 語り:夏井いつき(1957年生まれ)、宇多喜代子(1935年生まれ)

※該当部分は「3分あたり
から

国民学校(今でいう小学校)の生徒だった宇多喜代子さんは、

『終戦といえば美し敗戦日』 宇多喜代子

という句を残しており、この季語を使う時は「終戦日」ではなく『敗戦日』を使う。「戦争が終わる」には戦争に勝って終わることもあるが、あれは、紛れもなく『敗戦』であった、と。

普通の歳時記には、「終戦日」が主たる季語で、『敗戦日』が傍題として小さく載っているだけだが、なぜ『敗戦日』を意識して歳時記が載せているかに思いを寄せると、戦後すぐを生きた人々の思いが浮かび上がってきます。

『あの負けたということを知っていると、次の戦争は始まらないだろうと思う。だから前の戦争を知っている人が居る限りは、次の戦争は始まらない』と田中角栄が言ったが、その通りだと思うと宇多喜代子さんは熱弁します。

そして、夏井いつきさんは、『道後俳句塾』で俳人・金子兜太さんと対談をした際のことを思い出します。

『元国語教師としては、子供たちへの平和教育として、俳句・季語が活きて使えるのではとの思いもあって、原爆忌や終戦日といった季語で子供たちに戦争を想像させて俳句を作らせてきた。
「こういうことは戦争を経験した兜太先生としては許し難いことですか?」
と質問したところ、
「戦争を体験もしてない人間が、俳句を作るということを、許容できるようになったのは、つい数年前のことだ。」と語ったそうです。
※1943年に(東京)大学を繰り上げ卒業し、佐々木直の面接をうけて日本銀行へ入行した。海軍経理学校に短期現役士官として入校して、大日本帝国海軍主計中尉に任官、トラック島で200人の部下を率いる。餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いする。1946年に捕虜として春島でアメリカ航空基地建設に従事し、11月に最終復員船で帰国する。(Wikipediaより)

それに宇多喜代子先生は、

『私(当時9歳)は銃後(戦地、前線に赴いていない一般市民のこと)だけど、金子兜太(当時25歳)は、戦場体験者。同じ戦争だけど体験が違うの。兜太に言わせると(空襲や原爆を受けていても)内地(と戦場)は違う

と語り、戦争を語り継ぐことは「大きなテーマ」だと続けます。そして、『若い人に伝えていくには、やらないといけない』と語っていたそうです。

宇多『俳句に出来たり、喋ったり出来るのは、まだマシなことなんです。本当に一番つらいことは、言葉にも出来ないし、作品になんて出来ない。まだ話せることは楽なんですよ。本当に身に持ってる辛いことは話せないです。で、作品が出来たり話したりできることは、そういう時期が来たよってことを兜太先生は仰ったのね。それもまた大事なことだろうと思いますけどね』
夏井『俳句っていうのは、五感で一生懸命想像するから、戦争なんて体験していない人が、『戦争はダメです』ってお題目を唱えるよりは、五感でその季語をどうにか五感で追体験、想像してみることは、子どもたちの一つの平和教育の上で何らかの力にはなると思う。』

と、平成の最後に語っていました。令和の今まさに『そういう時期が来た』と同時に、戦場を経験した人が殆どお亡くなりになり、銃後を経験した世代ですらお元気な方が減っている。

『儀式』や『形式』としてではなく、まして冷やかす、茶化すのではなく、八月、そして八月の季語に『五感』でフルに想像を働かせて将来へと伝えていく。経験していないから作品に出来る世代が作品にしていくことの重要性を、『八月』という季語一つを取っても言えるのだと思います。

戦争を経験した方々にも、本当にその句を、そのnoteを見せられますか? 重い重いテーマを頭の片隅に入れておく必要があろうかと思わされました。

長くなっちゃいましたね。ここについては、いつか独立した記事にするかも知れません。それぐらい重大なテーマだと個人的には思っていますゆえ。

【おわりに】

『八月』という季語についてお分かり頂けましたでしょうか? ぜひ皆さんも皆さんの「note」や、私のコメント欄宛てでも良いので、『八月』の俳句を作って、後世に語り継いで行きましょう!


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