見出し画像

「平家物語」なクイズスレ感想戦 ~前半戦~(№209)

【はじめに】
この記事では、2020年10月23日にクイズスレで開催した「クイズ平家物語」を振り返っていきます。

ちなみに、この動画をやるキッカケとなったのは、2020年10月3日にYouTubeにアップされた中田敦彦のYouTube大学『平家物語』の動画です。

日本史と軍記物語(古典文学)としての違いには留意しつつ、Wikipedia穴埋め形式の問題を中心に30問出題しましたので、ぜひ平安末期の流れを抑える際の参考になさってください。

1.

まずは、『平家物語』そのものについてこちらの問題から。

【 1問目 】
【 広辞苑穴埋めクイズ 】です。
空欄に入る日本三大随筆の一つは?
 
しなののぜんじ-ゆきなが【信濃前司行長】
鎌倉時代の人。藤原行長。【 何 】の記述によって平家物語の作者に擬せられる人。

【 正解 】徒然草(つれづれぐさ)

『平家物語』の作者については諸説あって、その説の一つが「藤原行長」。ただ、中田さんの動画などでは『作者不明』とされています。
名前が良く似た『源氏物語』の作者が“紫式部”と小学生でも教わるのとは、大きな差がありますね。

それでは早速、本編に突入していきましょう。と、言いつつも、最初に登場する平家は「平清盛」ではありません。その父親・忠盛です。

【 2問目 】
【 漢字変換クイズ 】です。
次の共通するカナ部分を正しい漢字に変換してお答え下さい。

【ショウデン】とは、平安時代以降の日本の朝廷において、内裏清涼殿の南廂にある殿上の間に昇ることを許すことである。
……天承2年(1132年)には平忠盛の内【ショウデン】が認められ、武士の時代の到来を告げる画期となった。

【 正解 】昇殿

画像1

「滝口の武士」や「北面の武士」など、身分低く卑しく見做される印象の「武士」ながら、異例の出世を遂げ。俗に「殿上人(てんじょうびと)」と呼ばれる存在となった平忠盛ですが、その息子である平清盛は、更に平家を繁栄させていくことになります。

【 3問目 】
【 何 】の乱は、平安時代末期の【 何 】元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、崇徳上皇は讃岐に配流された。
この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。

【 正解 】保元(ほうげん)

平忠盛が殿上人となって約四半世紀後、1150年代前半になると、忠盛の子・平清盛が一家の棟梁となり、1150年代後半の2度の戦乱で勝利した平家が、急速にその政治的地位を高めることとなります。(「保元の乱」の3年後に起きたのが「平治の乱」ですね。)

続く1160年代になると、平清盛が、武士としては初めて「太政大臣」に任じられます。このことは、義務教育の社会科でも習う範囲の知識ですが、ではこんな問題はどうでしょう。近似値クイズです。

【 4問目 】
【 近似値クイズ 】です。
武士として初めて太政大臣に任ぜられた平清盛が太政大臣だった期間は、
1167年3月4日から【 何 】年6月13日(ユリウス暦)までだったでしょう。

【 正解 】1167年 (※僅か3か月・100日程度)

実は、「太政大臣」だった期間は、わずか3ヶ月程度だったのだそうです。

(ウィキペディアより引用)
太政大臣は白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた藤原信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。仁安3年(1168年)清盛は病に倒れ、出家する。

画像2

(1160年代から1170年代にかけて、)平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめます。しかし、

【 5問目 】
【 広辞苑穴埋めクイズ 】です。
 
[慣]【 何 】は久しからず
 [解](平家物語の書出しに……
    平家の存亡を予言した文から)
栄華を極めて勝手な振舞をする人は
長くその身を保つことができない。

【 正解 】驕る平家は久しからず

この栄華も、決して、永久には続かないということを我々は知っています。しかし、当事者達はそんなことは知らず、隆盛を極めていきます。

画像3

【 6問目 】
平徳子は、日本の第80代天皇・高倉天皇の皇后。女院。院号は【 何 】院。
安徳天皇の母。父は平清盛、母は平時子。

【 正解 】建礼門院

平清盛は、娘・徳子を「高倉天皇」の皇后とし、更に、後にはその息子(清盛から見て孫)を天皇に即位させることとなります。ちょうど、百数十年前に「藤原氏」が、天皇の外戚として権勢を振るったのと全く同じ様に。

画像4

【 7問目 】
【 何 】拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い者が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前……など、貴紳に愛された【 何 】拍子も多い。

【 正解 】白拍子(しらびょうし)

画像5

清盛からの無慈悲な扱いが、清盛の人となりを表す上で印象的だった祇王は、祇王忌が春の季語になるほど中世以降、広く知られていた白拍子です。

【ウィキペディアより引用】白拍子(しらびょうし)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人。

どういった扱いを受けていたのかは、『平家物語』の記述、あるいは、YouTube大学での中田さんの好演でお楽しみ下さいますよう。

そして、勿論、普段のクイズスレ同様、『平家物語』本編だけではありません。こんな問題も唐突に盛り込んできます。

【 8問目 】
乱世編
初出:『マンガ少年』(1978年4月号 - 1980年7月号)
……一方おぶうは平清盛の侍女となる。
 
悪名高い清盛は、実は世間の荒波と家中の乱暴狼藉の板ばさみに苦悩する小心な老家長であった。
そしてその清盛には、大陸からもたらされた【 何 】を隠し持っているという噂があった。

【 正解 】火の鳥

作品名や作者名は一切明示していませんが、それが実はヒントになっているのです。上段部分で「創作作品」であることを導いて欲しい所でした。

画像6

正解は、中田敦彦さんが一番に推す漫画:手塚治虫先生のライフワークとなった不朽の名作『火の鳥』です。その中の「乱世編」から出題しました。

2.

「平氏にあらずんば人にあらず」として伝わる『一門にあらざらん者はみな人非人なるべし』な時代が続く1170年代には、

【ウィキペディアより引用】 ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つようになり、建春門院の死を契機に、清盛と対立を深めていく。

こととなります。そんな中、起きたのが教科書などでは「陰謀」として習うこちらの事件です。

画像7

【 9問目 】
近年では、この陰謀が平清盛によってでっち上げられたものだとする説など解釈に諸説あり、「【どこ】の事」と著す学者もいる。……謀議が事実であったかどうかは当時でも疑問視する向きが多く、西光と成親が清盛の呼び出しに簡単に応じていることから、平氏側が院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との衝突を回避するためにでっち上げた疑獄事件の可能性もある。

【 正解 】鹿ヶ谷(ししがたに)

この「鹿ヶ谷の陰謀」辺りから、平家への不満が史上で顕になってきます。

画像8

【 10問目 】
鬼界ヶ島(きかいがしま)とは、平安時代末期の1177年(治承元年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛、平康頼、藤原成経が流罪にされた島。【 何 】国に属す。古代以降、日本の南端の地として長い間認識されていた。

【 正解 】薩摩国(さつまのくに)

現代日本における「喜界島」と同じかの議論はさておき、最果ての地とされた「鬼界ヶ島」まで流罪になる者が出る一件が、『でっち上げ』だったかも知れないという事実、今回の企画の作問を通じて初めて知りました。

画像9

1177年の鹿ヶ谷の陰謀、そして1179年の「治承三年の政変」によって、平家の知行国は、日本の約半数に及ぶまでに至ります。

【 11問目 】
「日本秋津島は僅かに【 何 】ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」(『平家物語』)という状態となった。

※空欄に入るゾロ目2桁な自然数は【いくつ】でしょう。

【 正解 】66ヶ国

知らなくても問題文の情報をしっかりと読み解けば、数択まで正解を絞れるかなと思って出題したクイズでしたが、『資料読み解き』系の問題はやはり短時間では厳しかったですかね~

【 12問目 】
【 4択の問題 】です。
高倉上皇と平家一門の反対を押し切り、平清盛の主導で造営が進められた、いわゆる「福原京」といえば、現在でいう【 何 】という都道府県に存在していたかつての日本の首都でしょう。

“大阪”府  “京都”府  “奈良”県  “兵庫”県

【 正解 】兵庫県(※兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部)

こちらの問題も、知識が無い、或いは「福原京」を聞いたことも無い方でも「4択」にすれば、偶然でも正解できる確率が高まるかなと思って出題した問題でした。『大輪田泊(おおわだのとまり)』などと関連付けて覚えてる学生さんなどであれば、選択肢が無くても答えられたかも知れません。

画像10

いずれにしても、平安京(京都)を離れ、都の造営まで本格的に進めていたというのは、権力も極まれりといった印象を受けます。

しかし、前半15問も残り3問というところで、ついに源氏が東国から登場。

【 13問目 】
【 漢字変換クイズ 】です。
次の文章中のカナ部分のみを正しい《漢字に変換》してお答え下さい。
 
以仁王の令旨を奉じて挙兵するも石橋山の戦いで大敗して
逃亡した源頼朝は、【アワ】(の)国で再起を誓った。

【 正解 】安房国(あわのくに)
※安房国:千葉県南部、×阿波国:徳島県

1180年に、高倉天皇が若くして譲位し、平清盛が外戚の祖父となる安徳天皇が数え3歳で天皇に即位します。その年起きたのが「以仁王の挙兵」です。

画像11

【ウィキペディアより引用】以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)は、治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と、源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。
計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。

「以仁王の挙兵」の後、1180年に東国で挙兵したのが「源頼朝」。言わずと知れた「鎌倉幕府」の征夷大将軍となる、あの頼朝(よりとも)です。

画像12

しかし、この時期に挙兵をした「源氏」というのは、源頼朝だけではありませんでした。次の問題です。

【 14問目 】
市原合戦は、治承4年9月7日に信濃国で起きた合戦。「善光寺裏合戦」とも呼ばれる治承・寿永の乱の中で起きた合戦の一つ。 史料上に初めて現れる源【 誰 】が関与した戦いである。

【 正解 】源義仲(みなもとのよしなか) ※いわゆる「木曽義仲」

一般的には「木曽義仲」などといった通称で知られている「源義仲」。良く問題文を読むと、「信濃国」や「善光寺」などと、いわゆる『木曽』っぽい要素は随所に散りばめていたつもりです。
(もちろん、木曽義仲を知らない方には答えようが無い問題ですが。)

源氏から「頼朝」「義仲」を紹介しましたが、1180年代の平氏軍の大将は、こちらの人物となります。

【 15問目 】
平 維盛(たいら の これもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には【 誰 】の再来と称された。

※空欄に入る架空の人物は?

【 正解 】光源氏(ひかるげんじ)

複数の書物にその容姿端麗さが記されている「平維盛」(当時20代前半)が、平氏の大将軍として「治承・寿永の乱」(いわゆる源平合戦)に、相向かうのであります!(ベンベン)

【おわりに】

平氏がその権勢を振るった1170年代までの時期を中心に『クイズ平家物語』の前半戦を振り返ってきました。ここから、いよいよ「源平合戦」が本格化していきますので、次回・後半戦もお楽しみに!以上Rxでしたではまたっ!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?