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「首」:”本能寺の変”前後の歴史解釈を大胆にアレンジした怪作!北野武は芸能が何かをよく分かっている。

<あらすじ>
織田信長(加瀬亮)は天下統一を掲げ、毛利軍、武田軍、上杉軍、京都の寺社勢力と激しい戦いを続けていた。その最中、信長の家臣・荒木村重(遠藤憲一)が反乱を起こし、姿を消す。信長は自身の跡目相続を餌に、羽柴秀吉(ビートたけし)、明智光秀(西島秀俊)ら家臣に村重の捜索を命じる。秀吉の弟・秀長(大森南朋)、軍司・黒田官兵衛(浅野忠信)の策で村重を捕らえ、光秀に引き渡すが、光秀は村重を殺さず匿う。村重の行方が分からず苛立つ信長は、思いもよらない方向へ疑いの目を向けるが、それはすべて仕組まれた罠だった……。

KINENOTEより

評価:★★★★☆
(五段階評価:★が星1つ、☆が星半分、★★★★★が最高、☆が最低)

日本史を学んだ人なら誰しも知っている、天下布武の名の下に、天下統一を目指していた織田信長が家臣の明智光秀に夢半ばで謀反を起こされた”本能寺の変”。その前後の戦国時代の出来事を、北野流に大胆にアレンジしたのが、本作「首」になります。まず、本作を観る前に覚えて欲しいというか、前提にあるのが本作に登場する戦国時代の様々なエピソードは史実として伝わっているものの、本作はそれを忠実に再現しようとする歴史スペクタクル劇ではありません(笑)。予告編にあるように、合戦シーンも出てくるし、「首」というタイトルに想像固くなく、ややバイオレンスな描写もたくさん出てきますが、そのどれもテレビの時代劇のような嘘っぽさが共存している。「アウトレイジ」の北野監督らしく、人が人を斬るというのは、そういう到達点にある演出にすぎず、大事なのはそこに持っていく前後のシーンなり、お話にフォーカスがあるです。この辺りは同じバイオレンスを追及している「レザボア・ドックス」などのタランティーノの味わいが近い。だから、出てくるキャラクターたちは必死に生きているのに、結局は斬ったり斬られたりの顛末になってしまう(そこにしぶとく生き残るのが、家康というのがまた面白い笑)。だから、本能寺で果てる信長も、企みにはまり非業な最後となる光秀もどこか愛おしい存在に思えてくる。下剋上の非業な世の中で、ホモソーシャルな社会を築いてきた侍文化の一旦を感じさせる作品となっています。

思えば、歴史というのは映像や音声が残る近現代とは違い、江戸時代以前の中世の時代の様子を現在に伝えるのは、例えば「信長公記」のような伝承物語が中心になっています。それに様々な書簡や信書、歴史遺物などの実際に残っているものを中心に、歴史の確からしさを検証していく。それが歴史学や考古学のような分野ではあるものの、正直誰も400年前には生きていないので、実は僕らが歴史で知っていることは嘘かもしれないし、嘘とは言わないまでも誇大して伝わっているものもあるかもしれない。でも、私たちが歴史を楽しむのは、そうした生き方をした人がいると面白いとか、同じ人間として身近に感じるとか、そういうシンパシーを感じたい(それが歴史の学びにつながる)からという、ある意味、人の独善的な一面があるのかもしれません。その面白さがエンターテイメントになり、人が人を演じるという芸能が生まれてきた。本作中も、北野映画ではおなじみの伝統芸能である能を映す場面があるのですが、様々な先人の物語を能であったり、歌舞伎であったり、お話として楽しんできた。それを現代では映画として感じることができるというのが、人としての幸せであるということを北野監督はよく分かっていると思います。

本作の面白さは、冒頭に触れたように様々な歴史エピソードを北野流の芸能として楽しめるところ。それは漫才から始まり、「スーパージョッキー」や「風雲たけし城」など、ビートたけしとして様々な形での笑いを提供してくれた北野コメディの片鱗を感じることができます。信長より若いはずなのに、お年寄りな秀吉や家康が登場すること自体、真面目な歴史劇をしようとしていないし、秀吉と秀長の掛け合いは漫才だし、家康の抜け目のない狸っぷりはコントだし、光秀の生真面目っぷりもどこか笑いを誘う。ただ、そうした人間のなさけない姿の裏で、時折見せるカッコよさみたいなものも実はあり(特に光秀の最期とか)、そのカッコよさは次に軽くあしらわれる笑いの予兆にすぎないというのも滑稽(笑)。いや、こんなに笑える戦国絵巻はあとにも先にも北野監督しかできない秀作だと思います。

<鑑賞劇場>TOHOシネマズくずはモールにて


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