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なぜ「聴く」について考え、深めているのか|聴き合う組織をつくる『YeLL』のnote

みなさん、こんにちは。
エール株式会社で代表をしている櫻井です。

私からは本noteを立ち上げるにあたって、なぜ「聴く」なのか、というお話をしてみたいと思います。

いきなりですが、エーリッヒ・フロムさんの著書「愛するということ」に、私の好きな一節があります。

私たちの社会では、愛とふつうの世俗的生活とは根本的に両立しない、と考えている人たちもいる。そういう人たちは、現代において愛について語ることは全般的な欺瞞に加担することでしかない、と主張する。さらにまた、現代社会において人を愛することができるのは殉教者か狂人だけだ、したがって、愛についての議論はすべて説教以外の何ものでもない、と主張する。
(中略)
愛について語ることは「説教」ではない。その理由は簡単だ。愛について語ることは、どんな人間のなかにもある究極の欲求、ほんものの欲求について語ることだからである。この欲求が眼に見えないものになってしまったからといって、それが存在しないということにはならない。

いきなり「愛」というと、少しこっ恥ずかしい人もいるかもしれません。

ただ、もし私たちは「愛」を受けていなかったら、いま生きていないはずです。少なくとも赤ちゃんの時、何一つできない私は、母の愛によって育てられました。

実は「聴く」というのは、「愛」ということと極めて近い行為だと思っています。
試しに、冒頭の一節の「愛」を「聴く」に置き換えてみます。

私たちの社会では、聴くとふつうの世俗的生活とは根本的に両立しない、と考えている人たちもいる。そういう人たちは、現代において聴くについて語ることは全般的な欺瞞に加担することでしかない、と主張する。さらにまた、現代社会において人の話を聴くことができるのは殉教者か狂人だけだ、したがって、聴くについての議論はすべて説教以外の何ものでもない、と主張する。
(中略)
聴くについて語ることは「説教」ではない。その理由は簡単だ。聴くについて語ることは、どんな人間のなかにもある究極の欲求、ほんものの欲求について語ることだからである。この欲求が眼に見えないものになってしまったからといって、それが存在しないということにはならない。

生まれたばかりの赤ちゃんは聴かれないと生きていけません。
泣いている赤ちゃんに対して「してほしいことがあるなら、はっきり言いなさい」とは、誰も言いません。

赤ちゃんの関心事に対して評価・判断をするのではなく、関心事に関心を向ける。

赤ちゃんの要求に対して、従うでも反対するでもなく、寄り添い、受け止める。

これがまさに「聴く」という行為の原型だと思うと同時に、この「聴く」ということは、人間のなかにある究極の欲求、ほんものの欲求だと思うのです。
(「聴く」とは何か?また、何ではないのか?「聞く」とはどう違うのか?については、別途書きたいと思っています。)


社会構造として、これまでは「聴く」を全面に現しづらいづらい時代でした。
だからといって、「聴く」という欲求がこの世の中に存在しないということにはならないはずです。

全ての人の中にある「聴きたい」「聴かれたい」という欲求。

これを社会の構造の中に組み込んでいくことができたなら、もっと多くの人が幸せに働き、幸せに生きることができるのではないか。

そんな風に思うのです。


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