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中学時代の先生が文化資本の差を少しでも縮め(ようとし)ていたかもしれない話

ファミコンっ子だった私は中学になると友人たちとパソコン部に入り主にゲームを作っていました。90年代初頭にパソコンが整備されている中学校はなかなか珍しかったのを覚えています。

この部活で顧問をしていた佐々木先生(仮名)は,社会科の担当でしたが,コンピューター関係に非常に強い先生でした。先生はゲーム作りにばかり向く僕らの目をどうにかゲーム以外に向けさせようとしていたように思います。

佐々木先生はちょうど僕らの学年団(ある学年を持ち上がりで担当する先生方。たぶん学校関係のジャーゴンだけどプリントなんかに漏れ出てきがち)だったので,3年間ずっと私のいたクラスの社会科担当でもありました。

1年生のある授業のとき先生が「モース・コレクション」と書かれたチラシを配り,「これに行きたい人いたら●月◎日に連れて行くから先生に言って」と言いました。

モースというのはエドワード・モースという明治時代のいわゆるお雇い外国人教師の一人で,動物学が専門ですが大森貝塚を発見したり様々な業績を残しています。モースは当時の民具を多く収集しており,そのコレクションを民博と東京で展示するというものでした。

なかなかこういうのに一人では行かないし,パソコン部の友人たちも行くしとかで,私も申し込んで行ってきました。当日集合場所だった近所の駅に行くと10人ぐらいの同級生と先生がいました。多くはこういうのでなければ交わらないメンバーだったと思います。

展覧会では先生と一緒に回る人もいましたが,おのおのが気になるところはじっくり見ていて,けっこう楽しめた記憶があります。私の場合,たぶん歴史で言えば出来事や武将などよりも大衆の暮らしのようなものの方が気になっていたので,時間をかけて見ていたんじゃないかという気がします。

佐々木先生はこれに限らず様々な展覧会の案内を生徒に配り,自分で連れて行ってくれました(もちろん交通費,入場料ほかは各自が出す)。時代背景が違うのはありますが,公式行事とかではないのに生徒を自分で学外に連れて行くってなかなか今だと見みません(娘たちの学校では聞いたことがない)。それを考えると,けっこうすごいことをやっていたと思います。当時はまったく気にしないでいましたが。

ではどうして佐々木先生はわざわざある意味私的に連れて行くなんてことをしていたのでしょうか。

今の私がひとつ考えるのは文化資本の差を縮めようとしていたんじゃないかということです。当時私のいた地域は東京の新興住宅地のひとつでした。ただ東京と言ってもこういう文化的な催しに出るという素地がなく,少なくとも美術館,博物館に行ったみたいな話をクラスメイトから聞くようなことはありませんでした(小学校のときにクラスメイトと大恐竜展には行った)。上野なんて距離的にはけっこう近いんだけど。文化資本については100分de名著がいいですね。

文化資本の蓄積は学歴や社会的地位に転換しうるものです。

佐々木先生は私たちの地域が美術館,博物館などに行く習慣がないことはよく分かっていたと思います。だから,授業でチラシを配るだけではなく(考えたらどうして担任でもない先生がチラシを配るのだ),実際に連れて行くことで,学校の中だけでは解消できない文化資本の差を縮めようとしていたのではないか。そう思うことがあります。おかげで私に関してはまんまと気になる美術展や展覧会,コンサートに子供らを連れて行くようになりました。私がそういうのを分かるかというのは置いといて。

最後に,これは自分でもちょっと驚くんですが,モース・コレクションに行ったときガイドブック(図録+解説)を買っていて,いまだ持っています。今でもたまにそれを眺めるんですが、民芸品って見てるだけでも面白いですし、今だと解説の面白さも分かります。

そこからいくつか撮影したものを貼り付けておきます。

左上:まり,左下:百人一首,中央:習字練習帳,右:餅屋の看板

モースは写真を撮って着色していたようです。当時は白黒の世界でしか想像できなかったので、初めて見たときは衝撃的でした。

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