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#42『Frontier 日本人女性 10人』Vol.1

第1回は、「医療、化学の分野」でのFrontier日本人女性10人を二回に分けて取り上げて見たいと思います。
#42は 、そのうちの、5人をとりあげて見たいと思います。
このシリーズは、いろいろな「分野」を取り上げたいと思っていますので、よろしかったらビュー&スキ、お願いいたします。
まだ、女性の権利や職業などに差別や高い壁があった時代に、高い志と努力で新しい道を開拓した女性たちの話です。
・『楠本イネ』(1872~1903)
 「東京の京橋区築地壱番地において、産科医開業罷りあり候」
 (=東京京橋区築地で産科医を開業しました)
 イネは、ドイツ人医師のシーボルトと母お滝との間に生まれ、西洋医学を学んだ日本初の女性医師です。
イネが2歳の時、父シーボルトは日本から追放されてしまいました。父から送られてきた語学書や医学書を読み、勉強に打ち込みました。父と同じ医学の道を目指したイネは、13歳の時、父の門下生のもとで医学の知識の習得に励みました。
24歳で子どもを授かったため長崎に戻り、長女タカを出産しました。長崎で子どもを育てながら医学の勉強に励み、32歳の時ようやく父と再開を果たすことができました。父から最新の医学を学び、1870年、43歳の時東京で産科医を開業し、1873年には宮内省御用掛にもなりました。
しかし、当時は医師開業試験の受験資格が女性には無かったため、1884年長崎の戻り、医学の知識を活かして「助産師」となりました。
・『荻野吟子』(1851~1913)
 「願書を再び呈して再び却下されたり。思うに余は生まれてより斯の如く窮せしことはあらず」
(=願書を何回提出しても受け付けてもらえませんでした。生まれてからこれほど困ったことはありませんでした)
 吟子は、江戸時代の終わりに今の埼玉県で生まれました。
16歳で結婚しましたが、病気で離婚しました。その後、医師は男性しかいない時代でしたので女性医師の道を志すことにしました。しかし、当時女性が医師になる道が開かれていなかったため、女子師範学校(教員養成)に進みました。その後、私立の医学校である女子寿院が開学し、入学を果たすことができました。
29歳になってようやく女性が医学を学ぶ道が開かれましたが、医師として働くための「医術開業試験」の道は、女性には開かれていないままでした。熱心に学び、高い志を持つ吟子に、高名な医師が協力してくれることになり、制度改革に奔走することになりました。
1885年ようやく制度改革が実現し、吟子は日本の公式女性医師の第1号となりました。その後、医院を開業するとともに、女性の権利拡大などの社会活動に生涯を捧げました。
・『吉岡彌生』(1871~1959)
 「至誠一貫」
 (=相手の立場に立って、心をこめて一生生きていきます)
 彌生は、18歳の時医学校「済生学舎」に入学し、医師への道を歩み始めました。そして、「医術開業試験」に合格し、日本で27番目の女性医師になりました。
その後、結婚し医院を続けていましたが、母校である「済生学舎」が女子の受け入れをやめたことを知りました。このままでは、再び女性の医師の道が閉ざされてしまうと考えた彼女は、夫の協力を得て、「東京女医学校」を設立することになりました。この時、彌生は29でした。学校を設立するといっても土地もなく、校舎建設の費用もなかったため、「医学校」は自分たちの医院内に設立することにしました。「医学校」は、医院の一室を教室にして生徒4人でスタートしました。
苦労と努力を重ね、1912年に「東京女子医科専門学校」へと昇格を果たすことができました。そして、1952年、彌生81歳の時、ついに念願であった「東京女子医科大学」が開校されることになりました。
彌生は、「医学校」、「医科大学」の開学に努めただけでなく、開かれた医学教育の推進や確立、女性の社会進出や地位向上のためにも生涯を捧げました。
・『香川綾』(1899~1997)
 「栄養改善に取り組むのは、病気を予防する医師の使命」
 (=病気を治すことも大切ですが、病気にならないように予防するのも医師の仕事です)
 綾が14歳の時、母が肺炎で亡くなりました。綾が子供の頃、母が手際よく料理を作る姿はまるで手品のように見えたそうです。綾は、母の死をきっかけに医師を目指すこととなり、22歳で「東京女子医科専門学校」に入学しました。専門学校卒業後、東京帝国大学医学部の内科教室で社会人生活をスタートしました。
綾はそこで、「脚気の治療」のためにはビタミンB1の摂取が必要であると考え、病院食の白米を胚芽米にかえるだけで目覚しく症状が改善することを確認しました。その経験を通じ、正しい栄養知識を広め、病気を予防する道に進むことが自分の使命であると考えたそうです。そして、栄養学を本格的に研究し、今では当たり前の、計量カップや計量スプーンを考案したのも綾でした。
綾は、34歳の時結婚をしました。結婚を機会に医療現場を離れ、自分の目指す道を歩み始めることにしました。自宅で、「家庭食養研究会」を立ち上げ、1940年には研究会は「女子栄養学院」に昇格させました。戦後、1950年には「女子栄養短期大学」になり、1961年には念願の夢であった「女子栄養大学」を設立しました。
・『井深八重』(1897~1989)
「もし許されるなら、ここに止まって働きたい」
八重はハンセン病を疑われ入院しました。しかし、誤診とわかり退院できると言われた時、八重が院長に答えた時の言葉だそうです。
八重が7歳の時両親が離婚し、伯父の井深家に引き取られ幼少期を送ることになりました。英語に興味を持っていた八重は、同志社女子学校に進み英語の教師を目指すことになりました。
長崎で英語教師をしていた22歳の時、体に異変がおきました。そして、検査の結果「ハンセン病の疑い有り」と診断されました。
ハンセン病は、感染症で十分な治療や薬が整っておらず、当時は、強制的に療養所に隔離され、家族と会うことも許されませんでした。
八重が入院した神山複生病院の医師は、医院長のレゼー神父一人だけで、看護師もいなかったそうです。八重は、25歳の時神父に頼み込んで病院で働き始めました。そして、26歳の時「日本看護婦学校」で看護師の資格を取り、それから60年もの間看護師として働きました。
八重には、「ナイチンゲール記章」を始め、国内外から多数の表彰が送られました。まさに日本のナイチンゲールと言える女性ですね。

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