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【第三世代フェミニストの弾薬庫】「叶小夜子はいつだって戻ってくる。そう、条件さえ揃えばね…」もはや「エコエコアザラク」の黒井ミサ?

以下の投稿では1970年代から1980年代にかけてラディカル・フェミニズムが国際的に猛威を振るった様子を描きました。

とはいえ、当時の一般的日本人のほとんどは、それに直接触れる機会がありませんでした。代わりに流行していたのが、例えばこういう考え方。

「ピーターパン症候群」と「ウェンディのジレンマ」は、心理学や社会文化の文脈で使われる概念であり、特にジェンダーや家庭内の役割分担に関連する問題を象徴しています。これらの概念の歴史的な背景や特徴、限界を説明します。

1. ピーターパン症候群

歴史的特徴

ピーターパン症候群(Peter Pan Syndrome)は、1970年代に心理学者のダン・カイリー(Dan Kiley)が提唱した概念です。この症候群は、成熟した大人になることを拒否し、子ども時代に留まろうとする心理的傾向を指します。名前の由来は、J.M.バリーの戯曲『ピーターパン』に登場する、ネバーランドに住む「決して大人にならない少年」ピーターパンから来ています。

主に成人男性に当てはまるとされ、以下のような特徴があります。

• 責任回避:仕事や家庭、社会的な責任を回避しようとする。

• 依存傾向:親やパートナーに依存し、自己中心的な生活を送る。

• 現実逃避:理想や幻想を追い求め、現実的な問題や困難に向き合おうとしない。

• 感情の未成熟:対人関係で未成熟な行動を取り、感情をコントロールできない。

カイリーは、ピーターパン症候群が社会的な規範の変化や家族構造の変容と関係があると主張しました。特に、20世紀後半の西洋社会で、男性が社会的に大人としての役割を果たすことへのプレッシャーが強まる一方、個人の自由や自分らしさの追求が重視されるようになり、これが一部の男性に心理的な負担を与えたとされます。

歴史的限界

1. 診断としての限界:ピーターパン症候群は、心理学的な正式な診断基準としては認められていません。カイリーの提唱は社会文化的な解釈に基づいており、医学的な症状としての根拠は弱いとされます。したがって、病理学的なカテゴリーとして使用するのには慎重さが必要です。

2. 性別に依存した解釈:ピーターパン症候群は主に男性に適用されるものとして議論されてきましたが、現代ではこの性別限定的な見方が批判されています。女性や他の性別にも、同様の「成熟への拒否」や責任回避の傾向が見られることがあり、性別に限定された概念の適用は歴史的に制限的だと考えられています。

3. 社会的背景の変化:現代では、ライフスタイルの多様化が進み、伝統的な「大人」像が変わりつつあります。結婚や家庭を持つこと、安定した職に就くことが必ずしも人生の成功や成熟の指標とは見なされなくなっており、ピーターパン症候群という概念そのものが時代遅れになる可能性があります。

2. ウェンディのジレンマ

歴史的特徴

ウェンディのジレンマ(Wendy Dilemma)は、「ピーターパン症候群」と対を成す概念で、カイリーが1984年に著書『The Wendy Dilemma』で提唱しました。この概念は、女性が男性(ピーターパン症候群を持つパートナー)の面倒を見、過保護になりがちな傾向を指します。名前の由来は、ピーターパン物語に登場するウェンディというキャラクターで、彼女はピーターパンの母親的存在として振る舞い、彼の世話をします。

ウェンディのジレンマには以下のような特徴があります。

• 過保護:パートナーや家族の世話を過剰に焼き、相手が自立する機会を奪ってしまう。

• 母親役割の強調:恋愛関係や夫婦関係において、パートナーに対して母親のような役割を果たす。

• 自己犠牲:自分のニーズや感情を犠牲にしてでも、パートナーの要求や期待に応えようとする。

ウェンディのジレンマは、特に伝統的なジェンダー役割の中で女性が置かれてきた「世話をする側」としての立場に焦点を当てており、男性の「成熟の拒否」に対して女性が過度に介入することで問題が深刻化するという見解です。

歴史的限界

1. ジェンダーロールの固定化:ウェンディのジレンマは、女性が「世話をする」役割に自然と向かうという前提に基づいていますが、これはジェンダーの固定観念に縛られた解釈だと批判されることがあります。現代では、男性も女性も家事や育児を分担し、従来の性別役割に縛られない関係が求められています。

2. フェミニズムとの衝突:1980年代の第二波フェミニズムが進展する中で、女性の自己犠牲やパートナーへの奉仕が批判され、女性の自立が強調されるようになりました。ウェンディのジレンマという概念は、女性がパートナーに依存しすぎるという考えを助長する可能性があるため、フェミニストの視点から批判を受けることもあります。

3. 変化する男女関係:現代のパートナーシップや夫婦関係においては、互いに対等な立場での支援や相互依存が重視されており、一方が過度に世話をするという役割分担が時代遅れになりつつあります。このため、「ウェンディのジレンマ」という概念自体が現代の男女関係には必ずしも当てはまらなくなっています。

まとめ

• ピーターパン症候群は、成熟を拒否し、責任を回避する男性を象徴する概念として登場しましたが、時代が進むにつれて性別に限定されない見方が求められています。また、ライフスタイルの多様化により、その概念は現代ではやや古いと考えられることもあります。

• ウェンディのジレンマは、世話をする女性の立場を強調したものですが、これはジェンダーロールの固定化や、女性の自立を妨げるという批判を受けることが多く、現代の対等な男女関係に必ずしも適合しない概念とされています。

どちらの概念も、歴史的には家庭内での男女の役割や社会的期待を反映していますが、現代の多様な価値観やライフスタイルには限界を持っています。

ChatGPTに質問「「ピーターパン症候群」「ウェンディのジレンマ」概念の歴史的特徴と歴史的限界について教えてください。」

これを読んで懐かしいと思った人は思い出してください。同時代には密かに「人を殺しても裁かれない」ラディカル・フェミニズム的ヒロイン像を受容する雰囲気もあった事を。

「男同様にノブリス・オブリージュを背負う女」としての宮崎駿「風の谷のナウシカ( 1982年~1994年)」におけるナウシカとクシャナ

宮崎駿「風の谷のナウシカ( 1982年~1994年)」におけるヒロインたるナウシカは物語冒頭において殺人を犯します。漫画版においては「小国ながらその後継者の立場として、大国から受けた侮辱を雪辱する為」、劇場版アニメでは「族長たる父を殺された復讐の為」。

「もう一人のヒロイン」トルメキア皇女クシャナも血路を切り拓く為に自らの手を汚す事を厭いませんが、その背景には幼少時から醜い後継者争いに翻弄されてきた悲しい過去が存在したのです。

ところで海外ネットには、ブルジョワ階層的立場から「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」的頓珍漢な発言が飛び出す都度貼られる、有名memeが存在します。

「うる星やつら」3巻Part 8「ツノる思いが地獄を招く(1980年)」における諸星あたるの発言「金持ちが別世界に生きている!! 封建時代はまだ終わってない!!」

一連のギャグの途中に登場するセリフなので、日本では特別話題になった事がありませんが、このコマだけ切り抜かれてそれだけが頒布されるうちに「金持ちが別世界に生きてる限り封建時代は終わらない(As long as the rich live in a different world, the feudalis will never end.)」的な強い政治的メッセージ性を帯びる展開に。

ただしこの感情はアンビバレント性も備えており「庶民の想像を絶する恵まれた環境で暮らす人々は、同時に庶民の想像を絶する様なリスクに囲まれて生活している」事へのそれなりの同情を引き出す力も備えていたりする訳です。

  • こちらで説明した石門心学的平等主義とも重なってくる話?

ここに「名族のSustainabilityの為に、男子なら当然の義務として背負わされるノブリス・オブリージェ(noblesse oblige=聖なる宿命)を女子も負わされる情景を尊ぶ」平等主義(Equalism)の観点も加わって、ナウシカやクシャナの行為は罪を問われるどころか「溜飲を下げる痛快事」として認識されるに至ったという次第。

男にすら「こんな奇跡の様な女なら存在してよい」と思わせた吉田秋生「吉祥天女(1983年~1984年)」の叶小夜子

同種のノブリス・オブリージュを背景に背負いながら「男と女ではオフェンスもデフェンスも違う」と公言する吉田秋生「吉祥天女(1983年~1984年)」の叶小夜子の場合は、さらに踏み込んできます。

この作品の物凄さは、こういう平等主義(Equalism)の立場からだけでは容易に擁護し切れない小夜子を一切裁かず、男性読者すら巻き込む形で「こんな奇跡の様な女なら実在しても良い」と全面肯定する結末へと突き進む事。

まさしく「このままフェミニズムをブルジョワ白人女性の独占物にしておいてよい筈がない!!」と叫んだベル・フックスらのブラック・フェミニズムや「社会そのものに埋め込まれた男性の女性に対するセクハラ構造」を告発したキャサリン・マッキャノンの自説がその正しさゆえに突き通った「ラディカル・フェミニズム覇権期」だからこそ不可逆的に顕現した奇跡の落とし子。そして、その輝き自体は今日なお色褪せていないのです。

もはや藤子不二雄「魔太郎がくる!!(1972年~1975年)」と並ぶ1970年代的呪術師、古賀新一「エコエコアザラク(1975年~ 1979年)」の黒井ミサ状態?

  • なお夢枕獏が「吉祥天女」を読んで「俺は何を見せられたんだ…男としてどう返せばいい?」と悩んだ挙げ句の果てに発表したのが「陰陽師(1986年~)」だったという恐るべきオチがつく。本当にこの時間軸、線形に推移してるの?

全ては当時の問題点が今日なお完全には克服されていないからとも?

  • 恋愛決めつけ論(女の人生は男で決まる)

  • 美男に否定的(ヒョロヒョロで弱々しくて女みたい)

  • 処女崇拝(非処女は傷モノ)

  • 武勇伝(母ごしに聞かされる事も多い)

  • ホモやオカマを極端に嫌う(男なのに気持ち悪い)

  • 役割決定制(女は家事)

  • 男も女も性的弱点を剥き出しにするのが人間味と解釈されていた(男は不潔でもいいと開き直り、女はペチャパイを嘆く)

  • 「男が着飾る必要はない」と妄信し、オシャレな男は大抵キザではなもちならない役。オカマは不細工で、その存在自体がギャグ枠。

いくらでも該当キャラが思い浮かびますね。「男おいどん(1971年~1973年)」の大山昇太、「こちら葛飾区亀有公園前派出所(1976年~2016年)」の両津勘吉と中川圭一、「うる星やつら(1978年~1987年)」の面堂終太郎、「The♥かぼちゃワイン(1981年~1984年)」の青葉春助…

そして人類が進化しない限り「彼女達」は幾度だって舞い戻ってくる訳です。エコエコアザラクエコエコザメラク…

ラディカル・フェミニスト達は何をしくじってしまったのか?

こうして、ある意味ラディカル・フェミニズムは現行の思想であり続けているにも関わらず「ラディカル・フェミニズム覇権期」はその順安定性を保ち続けられず、終焉を迎えてしまいました。その最大の理由は、男すら「こんな奇跡の様な女なら実在してよい」と納得する条件の針の様な、(驚くべき収束の速さに定評がある)指数族分布的ピーキーさを認識せず、無頓着に「一人一派の感性」に射影しようと試み続けたせいではないでしょうか。

  • 指数分布の理論値においては、平均寿命N年の生物がN年目まで生存している確率は$${\frac{1}{e}=0.3678794}$$、その倍だと0.1353353、3倍だと0.04978707(実際にはワイブル分布における摩耗補正が掛かってこの理論値を大きく下回る)と「1から離れた場合の確率収束」が極めて早い。

  • ポアソン分布の理論値においては、一定期間にある事象が起こる確率が1回の時、それが1回も起こらない確率は$${\frac{1}{e}=0.3678794}$$、2回で1回も起こらない確率は0.1353353、3回で1回も起こらない確率は0.04978707、5回で1回も起こらない確率は0.006737947とこちらも「1から離れた場合の確率収束」が極めて早い。

一言でいうと、よほど厨二病を拗らせてでもいない限り、女性自身にとってすら「誰もが脳天気に参加したくなる様な枠ではない」という事。

  • 要するに以下の漫画に出てくる「へー、すごいな→でも自分には関係ないな→巻き込まれたくないな」の連鎖。シスターフッド? それ美味しいの?

そしてこの辺りの運用が杜撰だと何が起こるか改めて浮き彫りにしたのが、スティーグ・ラーソン「ドラゴン・タトゥーの女(原題Män som hatar kvinnor=女を憎む男達,2005年)」や、ピエール・ルメートル「その女、アレックス(Alex, 2011年)」や、自伝「女盗賊プーラン」などが国際的にもてはやされた、いわゆる「ラディカル・フェミニズム文学リバイバル期(2010年代)」だったという次第。

一時期、あらゆる本屋でこの3冊が平積みされていましたが、その一方で同時期Tumbrに割拠した第三世代フェミニストの姉様達はそれについて一切口にする事がありませんでした。そもそも「壮絶な環境で育ったが故に、男に対してどんな復讐をしても許されると信じるに至った無敵女」を英雄として担ぎ上げるのは対立陣営たる第四世代フェミニズムのやり口。そしてやがて主張内容が熟成して深味を増すどころかグダグダに煮崩れて一般人も逃げ出し、結局は運動そのものが竜頭蛇尾に終わってしまったのでした。

  • 上掲の寄稿はフェミニズムの現状について「(トランスジェンダーを擁護する)リベラル・フェミニズムと(その存在を認めない)ラディカル・フェミニズムが対峙している」と分析しており、実際そういう分析は頻繁に見掛けるが、そもそも、どちらの陣営も(それぞれその政治的立場の順安定性を保つのに窮々とし過ぎてるせいで)「セクシャルマイノリティのグラデーション性」に目を向ける余裕がなさそうなのが気に食わない。

  • 元来シスターフッドなるもの、「風の谷のナウシカ」におけるナウシカとクシャナ、「ヴィンランド・サガ」におけるクヌート大王とトルフィンの様に「お互い相容れない立場ながら、相手に敬意を払う事を忘れない呉越同舟の乗客(そもそも迂闊に喧嘩を始めてフランス革命やパリ・コミューンの様に船ごと沈んでは元も子もない)」たるべきなのではあるまいか? そもそも第三世代フェミニズムは「夫が仕事に専念できる様に、家事と育児を担当する妻」も「夫と家事も育児も分担する共稼ぎの妻」も「それぞれの判断を尊重する」立場なので、他の考え方の持ち様がなかったりする。

  • 「迂闊に喧嘩を始めて船ごと沈んでは元も子もない」…この辺りの認識は正直、「お互い隙あらば相手を船から蹴落とそうと狙ってる」国際資本主義陣営の方がよっぽどSustainability(順安定性維持)志向がはっきりしているといえよう。

特に上掲の様な意味合いにおいて「男女ともに抑止力としてのラディカル・フェミニズムを日常の一部として受容する道を選んだ」日本人の感性では、ここまで極端な例を目の前に一斉に陳列されると、ついこう言いたくなってしまいます。「ああいうものを真っ直ぐ見るな」と…

その一方で当時、第三世代フェミニストの姉様達にあえて自ら従う道を選んだ小娘達が好んだのはこういう女性像だったのです。

  • ディズニー劇場用アニメ「ヘラクレス(Hercules,1997年)」における「悪女」メガラ。

  • ミュージカル映画「レ・ミゼラブル(Les Misérables, 2012年)」における「悪女」エポニーヌ。

  • アクション映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road ,2015年)」における「脱走の幇助者」フュリオサ

  • アクション映画「LOGAN/ローガン(Logan,2017年)」に登場する「ウルヴァリンのクローン少女」ローラ。

  • あと何故か一緒のグループに混ざってた「Let it Goと関連づけられたロキ」。そういえば元々性別不明のキャラだったりする。

なんでこんな「男性が迂闊に騎士道精神を発揮して、上から目線で「I can fix her!!」などと吐か抜して接近すると尻の穴まで毟り尽くされかねない難物」ばかりで揃えた? 共通項として特徴抽出されるのは「自分の信じる正義に向けてまっしぐら」どころか「自分の感情すらコントロール出来ず、周囲を巻き添えにしてふらふらし続ける不安定性」要素とか「あたしってほんとバカ?と反省するタイミングがある」要素あたりで、まさにその辺りが共感の原点。それにつけても、ひしひしと感じるのが「隙あらば歌わされる」圧。今なお深い爪痕を残すディズニー・ミュージカル・アニメの大いなる影響力を感じずにはいられません。

  • 気のせいか、こうしてこの分析から得られた分布意味論的確率空間が「日本における悪役令嬢ブーム」の同素体(構造こそ違うが要素は同じ)に思えてならない。解読の鍵になりそうなのは「愚かだった自分を過去に繰り込む」その発想。とりあえずメモがてら。

ならばマイクを渡されたナウシカさんや、クシャナさんや、叶小夜子さんはどんな歌を歌うのでしょうか? そういう方向に頭がパンクした時点で以下続報…

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