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【第三世代フェミニストの弾薬庫】「一人一派」問題を抱えてるのは、本当に女性だけ?

今回はこの投稿の続き。

この投稿を読んで、こう思った人が少なくなかった筈です。「あれ?これいわゆる一人一派の話では?」

フェミニズムは、女性が女性であることによって差別や抑圧を受ける社会、女性たちの尊厳や権利や安全を軽んじる文化を変革し、女性たちの生の可能性を広げようとします。ここまでは多くのフェミニストが同意できるところです。ところが、そのためにさらに具体的に何をするのかに踏み込むにつれて、フェミニストたちの見解は多様にわかれていくことになります。フェミニズムが何をするのか、何をするべきなのかについて、フェミニストたちの意見は簡単には一致しないのです。「フェミニストは一人一派」と言われる所以です。 

とはいえ、この点でフェミニストたちの意見が一致しないのは、ある意味では当然のことでもあります。フェミニズムがその可能性を広げようとする「女性たち」の「生」は、とてつもなく多様だからです。何をどうしたらどの女性の生の可能性が広がるのか、それによってどの女性は恩恵を受け、逆にそれをすることがどの女性の生の可能性を─意図せずだとしても─阻害してしまうのか。それらをあらかじめすべて見通して、あらゆる女性たちの生の可能性を一気に開くような「何か」をしようなどというのは、最初から無理な話です。フェミニズムが「何かをする」とき、それはいつも未完成で、いつも批判の余地があり、いつも異論に開かれている。むしろその不一致にこそ、変革の力としてのフェミニズムの可能性があります。 

上掲「女性の生の可能性を広げるために、フェミニズムは何をしてきたのか?」

それとこれと「どこが違うのか」明らかにするのが、今回の投稿の主目的という次第。

まさかの時にフランス恐怖政治。

ところで一般にフランス革命の掉尾を飾る恐怖政治(1793年~1794年)は、ロベスピエールら公安委員会が勝手に始めたと思われてますが、実際にはそうでもありませんでした。ジロンド派の始めた革命戦争が敗色濃厚となり、パニックからフランス市民が疑心暗鬼になって互いを「王党派の密偵」と決め付けて殺し合う様になったので、それを鎮めるショック療法として始まったのです。

10月16日には王妃マリー・アントワネットが処刑された。粗末な服を着せられ、両手を後ろ手に縛られた彼女は、群衆の中を刑場に送られ、断頭台の露と消えた。ついで、ジロンド派の粛清が行なわれた。国民公会は3日間しか弁論の期間を与えず、21人のジロンド派全員が死刑判決を受けた。うち1人は自殺し、ブリッソー、ピエール・ヴェルニヨら20人は10月30日にギロチンで処刑されたが、処刑に要した時間はわずか38分であった。11月8日にはロラン夫人が処刑された。彼女は「ああ自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されたことか!」と叫んだという。その死を知った夫のジャン=マリー・ロランは自殺した。

さらに天文学者でパリ市長でもあったフイヤン派のジャン・シルヴァン・バイイや三頭派のリーダーであるバルナーヴも処刑された。逃亡中のコンドルセは服毒自殺した。国王ルイ15世の愛妾であったデュ・バリー夫人は金持ちというだけで処刑された。また有名な化学者のアントワーヌ・ラヴォアジエは、徴税請負人の仕事もしていたために審理が終わらないまま「共和国は学者を必要としない」という理由で処刑された。ルイ16世の死刑に賛成票を投じた王族のオルレアン公(平等公)が処刑されたのは1793年11月6日のことである。

12月4日、法令により政府の細目が制定される。これにより、公安委員会が外交・軍事・一般行政を、保安委員会が治安維持を担当することになった。

1794年には、ルイ16世の妹であるエリザベート王女、ルイ16世の弁護をつとめたギヨーム=クレティアン・ド・マルゼルブ(英語版)、ラ・ロシュフーコー=リアンクール公爵(ラ・ロシュフーコーの孫)、詩人のアンドレ・シェニエも処刑された。後に皇帝ナポレオン1世の皇后となるジョゼフィーヌの先夫アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵が処刑されたのはテルミドールのクーデタのわずか4日前の7月23日のことである。

次いで分派闘争が起こりジョルジュ・ダントン、カミーユ・デムーラン、ジャック・ルネ・エベール、リュシル・デュプレシなど多数が殺された。

恐怖政治が行われた間、パリだけで約1,400名、フランス全体では約2万人が処刑された。処刑方法には銃殺刑が多かったが、ギロチン(断頭台)による刑がよく知られている。ただし、プレリアール22日法の制定によって、司法手続きが大きく簡略化されたため、正統な裁判なしでの死刑や獄中死も多く、それらを含めると犠牲者は4万人を超えるものと思われる。

パリで革命裁判所が設置された1793年4月から94年6月10日までに、1251人が処刑されたのに対し、審理を経ない略式判決が許された6月11日から7月27日、(テルミドール9日)までの僅か47日間で、パリの断頭台は1376名の血を吸い込んだ。処刑方法には銃殺刑が多かったが、ギロチン(断頭台)による刑がよく知られている。ただし、プレリアール22日法の制定によって、司法手続きが大きく簡略化されたため、正統な裁判なしでの死刑や獄中死も多く、それらを含めると犠牲者は4万人を超えるものと思われる。

上掲Wikipedia「恐怖政治」

しかしながら国民皆兵制が功を奏して戦況が持ち直すとフランス市民は正気を取り戻し「誰がこんなに殺したのだ!? 責任者をギロチン位掛けろ!!」と叫び始めます。それでロベスピエールら「大量殺戮を命じた側」と、実際に大量殺戮を遂行した「死刑執行人達」の最終決戦となり、陰謀と党争と人殺しに慣れた後者が勝利して「もはや立て直し不可能となった」革命自体を終了させたのが、いわゆるテルミドールの反動(Coup d'état du 9 Thermidor,1794年7月27日)だったのです。実際「勝者」側のリストに目を向けると…

  • マルセイユとトゥーロンで王党派大虐殺を遂行したポール・バラス(Paul François Jean Nicolas, vicomte de Barras, 1755年〜1829年)。

  • リヨンで王党派大虐殺を遂行したジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché, 1759年〜1820年)。

  • 九月虐殺(Massacres de Septembre、1792年)参加者でもあり、「ジロンド派の本拠地」ボルドーで大虐殺を遂行したジャン=ランベール・タリアン(Jean-Lambert Tallien, 1762年〜1820年)。

まるでナチスが第二次世界大戦に勝利したら、正気に帰ったドイツ国民が正気に返って「誰がこんなにユダヤ人を殺したのだ!! 責任者を吊るせ!!」と叫び始めたので絶滅収容所を経営した当事者がヒトラーら首脳部を生贄に差し出したかの様な地獄絵図。とはいえ陰謀と党争と人殺しの能しかない「フランス革命の最終勝者」に国家経営の才能はなく、それで最後には「革命のモグラ」シエイエスが取り立てた「フランス革命戦争の英雄」ナポレオン・ボナパルト将軍が全てを総取りする結果となった訳です。

さて「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として。二度目は喜劇として」。ソ連衰退開始の影響を受けてマルクス主義フェミニズムの形骸化が進行すると、その隙を突く形でウーマンリブ運動が勃発。それが壮絶な内部分裂に終わったので「ショック療法として」ラディカル・フェミニズム運動が台頭してきました。今では多くのフェミニストが必死で忘れ様としている「ラディカル・フェミニズム覇権期」…

その歴史展開をどう認識するかによって、「見苦しく政治的であり続けようと足掻く」似非フェミニズムの「一人一派」と「あえて均等主義(Equalism)への発展的解消という道を選んだ」第三世代フェミニズムのSustainabilityは分岐するという次第。

ところでtumblr住人だった2010年代の私は第三世代フェミニスト陣営の末端として第四世代フェミニスト集団の末端と対峙してました。最終的に前者は「個人的選択を重視する」平等主義の雲海に、後者は「政治的強度を最優先で考える」無政府主義の暗闘に飲まれる形で消滅。準安定性維持を至高目標に掲げる集団がそうやって統廃合によって消えていくのも 人類全体のSustainability展開の一環という話…

上掲「「いつからかSustainabilityが全てに優先される様になった」という話」

今は誰も思い出さなくなった「ラディカル・フェミニズムの覇権期」

さて、皆さんは「ウルトラフェミニズム」というと、どんな流派を想像されるでしょうか?

さらには「ブラック・フェミニズム」なんてのもありました。

ブラック・フェミニズムは、アフリカ系女性が経験する複合的な抑圧を理解し、解放を目指す運動や理論の枠組みです。特に、性差別だけでなく、種族差別や階級差別が交差する形で作用するという視点を強調します。以下に、ブラック・フェミニズムの歴史的背景や主要な展開を説明します。

1. 起源と背景
ブラック・フェミニズムは、20世紀における公民権運動やフェミニズム運動に端を発しますが、その根はさらに古い時代に遡ります。黒人女性は、奴隷制度の時代から、性差別と人種差別の二重の抑圧に苦しんでいました。この歴史的背景の中で、黒人女性が声を上げる必要性が高まりました。
●ハリエット・タブマンやソジャーナ・トゥルースのような女性奴隷の解放運動家が、19世紀から既に性差別と人種差別に立ち向かっていました。
● 20世紀初頭には、アイダ・B・ウェルズがリンチ反対運動に取り組み、黒人女性のリーダーシップを強調しました。

2. 1960年代-1970年代: ブラック・フェミニズムの形成
ブラック・フェミニズムは、1960年代から70年代にかけて、公民権運動や第二波フェミニズムの中で明確に形成されました。
●公民権運動では、黒人男性が主にリーダーシップを取っていましたが、黒人女性は運動の中心的な役割を果たしながらも、性差別に直面しました。例えば、男性中心の運動の中で、黒人女性の声が抑圧されたり、役割が限定されることがありました。
● 同時に、白人中心のフェミニズムは、黒人女性の経験を十分に考慮していないことが問題視されました。白人フェミニストの運動は主に性差別に焦点を当てていましたが、黒人女性にとっては人種差別や階級差別が重要な問題であり、それらが無視されがちでした。

3. コムバヒ・リバー・コレクティブ声明(1977年)
ブラック・フェミニズムの運動の中で特に重要な出来事が、1977年のコムバヒ・リバー・コレクティブ声明です。この声明は、ブラック・フェミニストグループであるコムバヒ・リバー・コレクティブが発表したもので、以下の点を強調しています。
● 多重の抑圧:黒人女性は、性差別、種族差別、階級差別のすべてに同時に直面しており、それぞれの問題を個別に扱うのではなく、交差するものとして理解しなければならないという考え。
● 自律的な解放運動:黒人女性が独自の視点から解放を目指すべきであり、他の社会運動(例えば、男性中心のブラックナショナリズムや白人中心のフェミニズム)に従属してはならないと主張しました。
この声明は、「インターセクショナリティ」(交差性)の先駆けともいえる視点を提示し、ブラック・フェミニズムの理論的基盤を強化しました。

4. インターセクショナリティ(交差性)の概念
1989年、法律学者のキンバリー・クレンショーは「インターセクショナリティ(交差性)」という概念を提唱しました。彼女は、黒人女性が複数の抑圧を受ける中で、その抑圧の影響が単に性差別や人種差別として個別に現れるのではなく、それらが交差して複合的な問題として現れることを指摘しました。
インターセクショナリティの概念は、ブラック・フェミニズムの理論をさらに発展させ、性差別、種族差別、階級差別、さらにその他の抑圧(例えば、性的指向や障害に基づく差別)が相互に作用し、個々の人々に独自の影響を与えるという考えを広めました。

5. 1990年代以降の展開
1990年代以降、ブラック・フェミニズムは学術的にも広く認識されるようになり、同時にポップカルチャーや大衆運動にも影響を与えました。
●アリス・ウォーカー、ベル・フックス、オードリー・ロードといった作家や学者が、ブラック・フェミニズムの視点を文学や哲学の分野で展開しました。彼女たちは、黒人女性の経験と自己表現の重要性を強調し、従来の白人中心のフェミニズム理論を批判的に検討しました。
●ブラック・フェミニズムは、アメリカ国内だけでなく、国際的な文脈でも影響を与え、他の非白人女性やグローバル・サウスの女性の経験をも考慮する動きに貢献しました。

6. 現代のブラック・フェミニズム
現代では、ブラック・フェミニズムは「ブラック・ライヴズ・マター」運動やLGBTQ+の権利運動などにも影響を与えています。特に、ブラック・ライヴズ・マター運動は、女性やLGBTQ+コミュニティのメンバーによって主導されており、ジェンダーやセクシュアリティと人種問題が複合的に絡み合う形で取り組まれています。

まとめ
ブラック・フェミニズムは、黒人女性が性差別と人種差別の複合的な抑圧に直面しているという現実に対する理論的・実践的な応答として発展してきました。その歴史は、奴隷制度時代の闘争に始まり、1960年代から70年代にかけての公民権運動やフェミニズム運動の中で明確な形を取り、今日に至るまで多くの社会運動に影響を与え続けています。

ChatGPTに質問「ブラック・フェミニズムの歴史について教えてください。」

表象の政治と生存:Combahee River Collectiveとブラック・フェミニズム(The Politics of Representation and Survival: Combahee River Collective and Black Feminism)

コンバヒーリバーコレクティヴは、1974年にボストンでバーバラ・スミス(Barbara Smith)、ビバリー・スミス(Beverly Smith)、デミタ・フレイジャー(Demita Frazier)らを中心に結成された黒人レズビアン女性のコレクティヴである。

コンバヒーリバーコレクティヴ宣言の先鋭性のひとつとして、抑圧からの解放には家父長制のみならず資本主義、そして帝国主義の政治経済システムの破壊が不可欠であるとフェミニズムの文脈で主張したことがあげられる。それまで家父長制が女性に対する抑圧の唯一の根源と語られることが多かったことに対し、コンバヒーリバーコレクティヴは、抑圧の要因は決してひとつではないことを明示した。女性に対する抑圧は人種や民族、地域、階級、ジェンダーそしてセクシャリティに基づいた差別と、帝国主義の歴史を引き継ぐ資本主義という男性中心主義的支配システムが組み合わさり引き起こされているのだ。さまざまな抑圧のシステムが重なり連動することを、彼女たちは以下のように「連結/結合」(interlocking)という言葉を用いて表した。

上掲「表象の政治と生存:Combahee River Collectiveとブラック・フェミニズム」

「私たちの中で社会が女性だと認めた輪の外側に存在する人たち、差異というるつぼに纏められた人たち、貧しい人、レズビアンである人、黒人である人、年配である人。そんな私たちは生存のための力が学力なんかではないことを知っている。それは差異を力に変えること。主人の道具が主人の家を壊すことはないのだから。主人の道具は、彼らを彼らの土俵で倒すことを一時的には許すかもしれない。でもそれらは私たちに真の変革をもたらすことはない。そしてこの事実が脅かすのは、主人の家こそが自らの土台だと考えている女性だけである」

オードリー・ロード、The Master's Tools Will Never Dismantle the Master's House

おやおや?なにやら雲行きが…

哲学者ミハイロ・マーコヴィックは、評論「女性解放と人間解放」(1976年)のなかで、自由主義の限界についてこう論じている。  抑圧された社会集団の解放にとって大きな障害であり続けている自由主義のもうひとつの基本的な特性は、人間の本質に関するその概念である。

ロック以来のすべての自由主義的な哲学者がわたしたちを何とか納得させようとしてきたように、人を征服し支配する衝動である自分本意、そして攻撃性が人間の特性だと定義するなら、市民社会での抑圧は、すなわち国家によって規制されていない社会的な領域での抑圧は、生活における現実になる。そして、男性と女性の間の基本的な市民としての関係は常に、闘いの場であり続けることになるだろう。そうなると、基本的に男性より攻撃的ではない女性は、男性に比べて劣った人間として隷属させられる運命を受け入れるか、あるいはもっと権力に執着して男性を支配しなくてはならなくなる。いずれにせよ、男女両性にとって解放が実現する事はない。

上掲「ベル・フックス「フェミニズム理論」」

出ました。「真の意味における女性解放は、自由主義国や資本主義国では決して実現し得ないので共産主義革命を最優先で遂行すべきである」なるマルクス主義フェミニズム的理念の継承。その根拠を衰退の最中にあるソ連でなく「マルクス主義改良運動」が盛んだった東欧に求めた辺りが新機軸。

それでは、それはどうやって実現されるのか?なんとこの問題は「女性VS男性」「富裕層VS貧困層」「白人VS黒人」の三軸で構成され、全女性のシスターフッド(連帯)によって解決されねばならないとされたのです。マルクス主義フェミニズムのスローガン「全ての女性の力を党の為に。そして党の力は革命の為に」の焼き直し。ただし1970年代ウーマンリブ運動の失敗を古典的マルクス主義の党争史観に拘泥し続けたブルジョワ白人女性運動家に押し付け「貧困黒人女性こそが女性こそがイニシアチブを握るべき(ヘゲモニー覇権を掌握すべし)」とした点が新規軸だったのです。

女性は互いに、性差別、人種差別、そして階級差別によって分断されている。フェミニズム運動の内部では、戦術や重要視する点が違っていたり、それらについての意見が一致していなかったりしたために、社会的な立場の違う多くのグループが結成されることになった。そんなふうにさまざまな政治派閥や特定利益集団に細分化されてしまっために、本来なら簡単に取り除けるはずのシスターフッドを妨げる不必要な障壁が築かれてきた。
特定利益集団は、社会主義フェミニストだけが階級を問題にすべきであり、レズビアンのフェミニストだけがレズビアンやゲイの男性の抑圧を問題にすべきであり、黒人女性、あるいは黒人女性以外の有色人種の女性だけが人種差別を問題にすべきであると思い込むよう女性たちに仕向けている。すべての女性は、性差別、人種差別、同性愛差別、そして階級差別に対して、社会問題として取り組むことで反対の立場を取ることができる。
何か特定の社会的な問題、あるいは特定の目標に対して焦点を絞ることを選択していたとしても、その女性があらゆる集団的な抑圧に断固として反対するなら、その特定の社会的な問題や目標にかかわりなく、そうした広い視野はすべての彼女の取り組みのなかにはっきりと表れてくるであろう。フェミニズム活動家が反人種差別主義であり、階級的な搾取に対して反対するなら、有色人種の女性、あるいは貧しい女性などが運動に参加していても何の問題もないはずである。たとえ、ある特定の問題で搾取されている女性が当事者として、その搾取との闘いの最前線に必然的に居続けることになっても、性差別、人種差別、そして階級差別といった問題を重要視することもできるし、そうした問題に取り組むこともできる。
自分に直接、影響を及ぼさない抑圧であっても、女性はそうした抑圧と闘っていく責任を引き受けることを学ぶべきである。アメリカ社会における他の急進的な運動と同じように、フェミニズム運動も個人的な関心や優先事項が運動に参加するただひとつの理由なら、その実情は病んでいる。総合的問題に関心を示すことによって、わたしたち女性は連帯を強化する。

上掲「ベル・フックス「フェミニズム理論」」

そう、元来「ブラック・フェミニズム」とは、以下の形でマルクス主義フェミニズムを再建しようとする、ある種の権威復興運動だったという次第。

  • 女性とは元来「一人一派」的立場だが、例え矛盾だらけでも全女性が全女性の抱える問題意識を肯定しない限り政治運動として成立しない。

  • 「真の意味における女性解放は、自由主義国や資本主義国では決して実現し得ないので共産主義革命を最優先で遂行すべきである」だからこそ「全ての女性の力を党の為に。そして党の力は革命の為に」。

そして、それは同時に「神は無謬のはずなのに、どうしてこの世には悪が存在するのか?」なる神義論的イシュー(問い掛け)に 対し、「中世スンニ派古典哲学の完成者」ガザーリー(Abū Ḥāmed Muḥammad ibn Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī 、1058年〜1111年)の流出論、すなわち「神の英知そのものは確かに無謬であるが、その理念は現実の世界へと全方向に向けて流出していく過程で数多くの誤謬を累積させ、最後には互いを悪と認定し合う矛盾を抱えた「歪んだ正義」にまで縮退してしまう」を暫定回答とした18世紀欧州における神学論争の焼き直しでもあったのです。

しかしながら「リスボン大地震(1755年11月1日)」到来によってかかる楽観的に過ぎる暫定回答が一瞬にして瓦解を余儀なくされた様に、ブラック・フェミニズムの振興もまたマルクス主義的革命史観の復興なる悲願自体は果たせず分裂衰退を余儀なくされたのでした。

そうやって「ラディカル・フェミニズムの覇権期」も終わった後、残骸として残った「(全女性を肯定しようとして矛盾の塊となった)一人一派」思想と「(元来はマルクス主義的革命史観の隠れ蓑に過ぎなかった筈の)それでも全女性は一つ」なる漠然とした「連帯」感を「ええとこどり」する形で現在の似非フェミニズム思想は形成されるに至ったのでした。なんたる悪魔合体。それはまさにオブジェクト指向プログラミングでは絶対避けるべきとされている「多重継承の暴走」に他ならないという訳です。

「平等主義(Equalism)への発展的解消」なる結末を選んだ「政治的」第三世代フェミニズムのSustainability戦略

1990年代、かかる「女性の一人一派的立場」に同情を寄せる振りをして全面否定するマルクス主義的フェミニズムから分離した「政治的」第三世代フェミニズムは、当然この様な形での「母屋の消滅」に際して対消滅の危機に曝されました。そこで採択されたのが「連帯」概念を放棄しての「確率的現実への回帰」という考え方。

「問題の評価軸として「女性VS男性」「富裕層VS貧困層」「白人VS黒人」の三軸を特徴抽出した場合、三軸一斉に意識して上手くいく事前確率は全体の$${\frac{1}{8}}$$、二軸に関心を集中して上手くいく事前確率は$${\frac{3}{8}}$$、むしろ一軸に関心を集中した方が上手くいく事前確率も全体の$${\frac{3}{8}}$$、さらにかかる特徴抽出全部が間違ってる事前確率が$${\frac{1}{8}}$$。そして、かかる全体像に女性問題が関わってくる事前確率は$${\frac{1}{8}+\frac{2}{8}+\frac{1}{8}=\frac{4}{8}=\frac{1}{2}}$$。」

  • もちろん実際に集計するうちに「一人一派的要望」は全体としての平均情報量を下げつつ、どこが厚くてどこが薄い分布か全体像を明らかにしていく(かくして出現頻度と条件付童子出現率が設定された分布意味論的確率空間が出現し、そのベイズ更新結果に合わせて運動のプライオリティが刻々と変化していく)。

  • まず(相応期間、相応の準安定状態を保ち得る)市民運動として成立する為に必要な最低限の動員数というのがあるので、それを確保出来るかどうか確かめるのが以下の図でいう「正業の検証」。しかしもちろん正しい動機に基づいて正しい結果が出せる見込みがなければそもそも運動るを始める意味がないので、これを検証するのが以下の図でいう「正見の検証」と「正報の検証」。

上掲の図自体は最近起こしたものですが、2010年台において第三世代フェミニズムが(あくまで政治的最終勝利を目指す)マルクス主義的フェミニズムからの完全決別を果たす為に選んだのは、概ねこういう考え方だったのです。例えばいわゆる「ピンクタックス問題」。

これを解消するアイディアの一つが「ユニセックスなデザインのカミソリの発売」という訳ですが、そのアプローチに市場性がある事を証明するには男性の一部(もちろん男性だって一人一派で「男らしいカミソリ」に執着するタイプもいるし、そうでないタイプもいる)を巻き込んでいくのが最も現実的だったりします。その一方で富裕層女性が特にこの問題に関して興味を持っていなければ「今回は特に巻き込む必要はない」と考えたりもする訳です。そして、本来ならそういう対応を柔軟に即決する為にこそ、シスターフッド(日頃の付き合いを通じての、あらゆる意味合いにおける相互理解)は存在すべきという話…

ラディカル・フェミニストが着手したセクハラ問題がマイケル・クライトン原作映画「ディスクロージャー」肯定を経て「逆セクハラ認定」に至る経緯もこの流れに沿ったものといえましょう。

そう、大事なのは「女も男も一人一派」なる点意識を「どういう市民運動なら成立し得るのか?(動員可能人数が十分でなければ、成立し得ない。動員可能人数が十分なだけでは成立させる意味がない)」なる個別の面意識へと発展的に解消していく現実主義的姿勢であり、この話が理解出来るかどうかが「(最終的に平等主義に到達した)第三世代フェミニズム」と「(いつまでも迷子の様にスタート値てウロウロしているだけの)似非フェミニズム」との峻別点になってくる訳です。そんな感じで以下続報…


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