「わかる」ことの効用。(2019年5月19日(日))
正直に言いますが、今までの私は、「私に理解できないもの→私に合わないもの」とうっかり思ってしまうとともに、「私に理解できないもの」をたのしんでいるひとたちに対し、その輪に自分が加われないことに起因する「さみしさ」と「憎しみ」を感じてしまうことが多々あったように思います。
(…もしかしたら世の中の「憎しみ」の大半って、この理屈?)
そんな自分のありようを変えたのが、自分の「視座(世の中の見方)」を様々に更新し続ける「学び」を自分の生活に組み込んだことと、
今まで理解できなかったとある「やりとり」をどうにか理解しようとして、
「y=ax(行動=関心×きっかけ)」や、「a=z^n」(「関心a」は「その人のその対象物に対する知覚z」の「べき乗(n乗)」)の方程式を頭に置きながら、その「やりとりy」の中にあるみなさんの「関心a」を割り出そうと注意を払ったり、
そのみなさんの「日頃の発言z」などから、「関心a」を推測しようと注意を払ったりしているうちに、
あるとき、その人たちが使っている「言葉の意味z」がわかり、同時にすっとその人たちの「関心a」がわかり、「やりとりy」のおもしろさがすっと理解できたという体験にありました。
「わかる(=自分の世界の見方が、新たな視座によって変わる)」だけで、「さみしさ」や「憎しみ」が消えるって、すごいことだよなぁ…。