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科学理論とは何か、私たちはこれをいかに使うべきか。(『構造主義科学論の冒険』より)


今年の1月から、ぽつりぽつりと時間を見つけて、メモをとりながら読み返していた、池田清彦さんの『構造主義科学論の冒険』。2月の末日になって、ようやく読み終えました。

元々は、知人の方々の読書会に「参加できるだろうか」「できるできないはさておき、まずは本の内容をしっかり頭に入れよう」と思って読み始めていたこの本。肝心の読書会にはタイミングを逃し続けているのですが、何より今後の自分(と、もしかしたらこの文章を読んでくださる誰か)のために、この本に書かれてあることから、「科学理論とはどのような本質を持つのか」「科学理論がそのような本質を持つのはなぜか」「私たちは科学理論をいかに使うべきか」の3点について拾い上げ、まとめてみたいと思います。

1 科学理論とはどのような本質を持つのか


科学理論とはどのようなものかをわかりやすくたとえた表現が、この本の第一章に挙げられています。それは「ガンの病巣が映ったX線写真からガンの病巣の存在を見出すには、あらかじめ医学的な理論を習得している必要がある」というものです。医学的な理論を持たない我々が何千枚何万枚とX線写真を眺める経験を重ねたところで、それが何を表しているかなど一生わからない。そういうたとえです。

科学理論とは、ある手段で観察することができる一連の(時間とともに変化していく)現象を、うまいこと括って名前をつける営みのことをいいます。この名付け(=物の見立て方)がうまく機能したなら、他のところでも同じような現象が観察できるかもしれないし、いろいろなシチュエーションに共通することとそうでないこととを、かつてないほど適切に表現(理解)することができるかもしれない。科学理論はそうした発想で編み出されています。

時事刻々と変化し、しかも一人ひとりがそれぞれの見立てをもとに何かを感じ取っていく。「現象」というのはそうした、ものすごく個人的な事象なのですが、これをコトバだけで説明しようとしても、相当親しく長く共にいる間柄でもない限り、自分以外の人に正しく伝えきることは困難です(実のところ、親しく長く共にいる間柄であっても、これは困難です)。

この困難を解消するため、科学理論は、これまでコトバでしか語られてこなかったもののうち「いろいろなシチュエーションに共通する」部分を拾い上げ、それを記号と記号の関係式(例えばニュートンのf(力)=m(質量)a(加速度)の方程式のようなもの)で現すことを目指しているのです。

2 科学理論がそのような本質を持つのはなぜか


上に書いたように、「現象」というものが「時々刻々と変化し、しかも一人ひとりがそれぞれの見立てをもとに感じ取っていく」ものであり、しかも「これをコトバだけで説明しようとしても、他人に正しく伝えきることは困難」なものであるからこそ、科学理論は、この困難を乗り越えるべく、「記号と記号の関係式」で表しうる部分とその表現方法とを、どうにかして見出そうとしているのです。

なお「現象」とは、一人一人がそれぞれの見立てを抱きながら経験をし理解した、そのことを言います。そういう意味で「現象」は、「生きること」に他ならないとも言えます。「現象(経験、生きること)」は、時々刻々と変わりゆく環境を、一人一人が異なる見立て(理論、解釈)を用いてつかむ(理解する)、そのもののことです。

さて、「変わりゆく環境」に対し、その都度まっさらな状態で立ち向かうのは大変なことです。なので、(おそらく多くの)生物は、自分にとってより都合のいい環境を察知するためのなんらかの「有効な見立て」を、様々な形で仲間と「共有」しながら生き延びてきたのだと思います。

人間の場合は、この「有効な見立て」として、「現象」という「目に見えるもの」を、「記号と記号の関係式」という「目に見えない観念」で表現するという手法を編み出しました。さらには、その手法をそのまま「未来」にも適用することで、これから発現するであろう類似の「現象」の到来をも予測できるようになりました。そして、その予測を社会の中で共有することによって、他者と協働しながら種として生き延びてきました。

人はなぜかしら「全く同じ「現象」を共有(共体験)できない限り理解しあえない」といった勘違いをしがちな生き物です。ですが、そうした勘違いを超え、様々な他者と協力し合うべく、人は(非科学的なものをも含めた)「理論」を活用してきたのです。

3 私たちは科学理論をいかに使うべきか


この本で池田さんは、「科学理論の正しさというのは所詮相対的なものでしかありません」と述べています。科学理論の本質は、その都度いい塩梅に「現象」を説明するための道具であるという点にありますから、「現象」が個別的でかつ変わりゆくものである以上、確かに「科学理論の正しさは相対的なものでしかない」というのは納得できる話です。

うまく生き延びていくために、その都度、「どの道具を使おうかな」と自分の頭で考え、有効な道具を選んで機能させる。科学理論というのは、そんな道具の一つでしかないのです。

さらに池田さんはこう続けています。「我々もまた、科学理論の正しさを自分で判断できないうちは絶対のものとして盲信してはいけません。それでは何を信じればよいのでしょう。現象です」。例えば他人が絶対のものだと押し付けてくる理論が、自分の現象を良くしないものであれば、それを受け入れる必然性はないわけです(その理論が、それを押し付けてくるその人にとっていい理論であったとしても)。

この類の押し付けが生まれる背景には、絶対的(いつ誰にとっても当てはまる)に正しい理論が当たり前にあるという誤解と、全ての人は自分と同じものを見て同じようなことを当然に思っているのだという誤解の二つがあるのだと思います。うっかりこの二つの誤解にはまり込んでしまうことは、程度の差こそあれ、多くの人にきっとあることで、だからこそ人は他人に対し「なぜ○○をしない?」「なぜ他人を思いやれない?」などと思い、果てには「お前は○○をすべき」という考えへと至ってしまうのだと思います。

「○○をすべき」といった具合に、「方法」ありきの着想から物事を始めるのはあまりいいやり方ではありません。まずは自分がどのような「理論」を持ちどのような「現象」を見ているのかをうまく説明できるようにすること。その上で、「科学理論」を活用できる時に活用するというのが、いいやり方なのではないかなと思います。

また、自分と異なる理論を持って異なる現象を見立てている他人に対しては、(その人が自分になにがしか困ったことを押し付けてこない限り、)「自分と違う理論で違う見立てをしているのだな」とそっとしておくのが最良のあり方だなということも思っています。

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