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出征の時は来たれり 父の手記より

父のアルバムや日記は、残念ながらもうない。

ただ、幾つか生前に写真を撮らせてもらったものがある。また、少し文章が残っている。

いわゆる赤紙というものが来ると、目出度いことと言わなければならなかった。
玄関前の門のところに、二本の長い竿の先に付けられた日章旗が交差して飾られ、その下に立つ父の写真を見たことがある。
そこは、まさしく私の生まれた家の玄関前であったが、今となっては記憶の中だけのセピア色の写真である。

戦争は新聞の報道と異なり、良い方向には向かっていなかった。
女学生は、言われるがままに、赤紙の何であるかを問うこともなく封筒に詰める作業を続け、それが、日本の津々浦々の若い男子の元へ配達された。

父は高校を出て、大学の機械工学科に入ったが、すぐ、形ばかりの図面を書いて卒論の代わりとし、兵隊となった。昭和18年のことである。
19歳であったろうか。

日本のために命をかけて戦ってくれた人の多くが、今の私の息子よりもずっと若かった。私は幸いその時代には、まだおらず、息子を送り出す母親でなかったので、息子との別離の悲しみ苦しみを味わうことはなかったが、母親の心中はどんなであったろうかと痛ましい。
彼らのおかげで、私の今の暮らしがあること、この先も絶対に忘れまい。

↑中国大陸へ出征する兵士満載の列車を見送る人々。報道写真より。

以下、父の書いたその時の話を載せる。
まず、赤紙の写真。

【父の手記】

私は、町内会の役員やら、在郷軍人会分会長、隣組の人達に見送られて入隊することになった。

「では、征きます」

と家を後にする。
「行ってきます」の言葉は、帰って来ることを前提としている。「行く」のは、旅行の行で、明確な目的意識に欠ける。当時の「ゆく」はすべて「征」を用うる。言葉の中に、当然のものとして「死」を意識している。

入隊先まで両親が付き添ってきた。それは、これが「最後の見納め」になるかもしれない子供の軍服姿を、その脳裏にしっかり焼き付けておくことでもあった。そして、子供の脱ぎ捨てた学生服を持ち帰るためでもあった。

「体だけは大事にしろな」。

それが付き添ってきた父母の唯一の餞別の言葉であった。その中には「生きて帰って来い」という無限の愛情がこもっている。生きて帰ることが期待出来ない戦局になっていたから、ただ「体を大切にして奉公せよ」という以外、言葉がなかったのである。

(以上)

不安ではなかったか?逃げたいと思うことはなかったか?
その時の父の気持ちは聞いたことがなかったが、親子であっても、そういうことを口に出すこと自体失礼な気がして、聞かずじまいだった。
父は、日本男子として国のために戦うということには、なんの迷いもなかったようだ。

上の写真は父のものではなく、戦争の報道記録写真である。彼らもまたあまりにも若かった。だが、日本に生まれた以上、兵隊にならぬことは許されなかった。存命なら、もう95歳くらいであろう。

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