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雑記 452 舞鶴引揚記念館

昨日は、棚田の岩座神集落から、さらに足をのばし、舞鶴の引揚記念館に行ってきた。

父がシベリア抑留から引き揚げてきた船の着いた場所で、長く行きたいと思いつつ行けずにいたが、やっと願いが叶った。
10年ほど前までは家の中にいるばかりの生活で、旅行など滅多に出来なかったので、今回は思い切って行ってよかったと思っている。

この高台で来る日も来る日も息子を待ち続けた母の話は「岸壁の母」という歌になり、有名になった。

父から聞いた話は、以前書いたので、ここでは改めて繰り返さないが、
記念館の中には沢山の資料が展示され、社会科見学や修学旅行の生徒が沢山いた。
中に、その生活が手に取るように分かる情景が再現されていて、沢山の兵隊たちが守ろうとしてくれた日本をいっそう大切にしたいと思う。

捕虜収容所(ラーゲリ)
ラーゲリの入り口
ラーゲリの内部
正面の窓には吹雪が吹き付けている。左奥の兵隊は病気らしく、もう長くはない様子だ。
食事の配給。手作りの天秤ばかりを使って、喧嘩にならないよう、分配する。上段にいるのは、病気や体調の悪い人で、少しでも上の方が室温が暖かいから、という。

沢山の人が、紙も鉛筆もない中、シラカバの樹皮に釘状のものなどで日記をつけ、その殆どは見つかって没収されたが、運良く見つけられずに持ち帰ることができた記録などあって、貴重な戦争の記録の記念館である。

12月にはこんな映画も公開される


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リンクがうまく貼れないので、過去のnoteの記事をコピーした。

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シベリア抑留からの引き揚げ 国は敗れても山河は残っていた。山河のある限り私達は生きてゆくことが出来るだろう。
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昭和23年5月。
半年以上滞っていたシベリア抑留兵の帰国が再開された。
輸送に使われた船は数艘あり、どれも約500人の兵を運んだ。
父は名優丸という船に乗って、日本に帰ってきた。
捕虜として、あちらでどのような暮らしをしていたか、時々、父は私に話してくれだが、子供にとってはもの珍しい話ばかりであった。戦争の悲惨さは敢えて消し去られているため、父の語りにその都度目を輝かした。

だが、今、よくぞお帰りなさいました、と、私も舞鶴港に出迎えた日本の婦人と同じように言おう。
今も、日本のために戦ってくれた兵隊の皆様に、有難うございます、と言おう。


帰国の日時を知らせる電報。

名古屋駅に着いて、家族と再会。地元の新聞に大きく報道された。
出迎えの駅構内には、両親の他、姉、弟もいて、このように誰一人として欠けず、生きて再会できる家族は、最も幸せな家族であった。

以下、父の手記である。

「日本海は荒れていた。私はただ眠いだけであった。
名優丸は徐行し始めた。若狭湾へ入って行く。
何という素晴らしい景色だろう。まるで箱庭のような、青々とした緑が目の中に飛び込んで来る。こんな風景は大陸では見ることが出来なかった。
日本はいい。文句なしにいい。
国破れても山河は残っていた。この山河のある限り、私達は生きてゆくことが出来るだろう。

日本が近寄ってくる。日本が近寄ってくる。日本はいい。日本はいい。昭和23年5月6日。快晴。

私達はランチに分乗して舞鶴の桟橋に向かった。埃と垢と、むれるような体に沁みついた悪臭、ボロボロの雑巾切れのような軍服の一団が、よろめくように日本の土を踏みしめていった。

桟橋近くの陸の上は関係者以外の人はあまりいなかった。それでも、自分の家族を探す人が「××県、何某」とか「誰か××部隊何某をお知りのかたはいませんか」と書いた布切れを持って出迎えてくれた。

おかえりなさい。おかえりなさいました。お元気で、ようこそ!と優しい言葉が私達に投げかけられた。
看護婦さんの真っ白な服がまぶしいほどであった。
帰国して初めて見る日本の女性である。
何という美しさであろう。ソ連の女の、男とも女とも見当のつかぬのに比べたら格段の美しさである。
口からは白い歯がこぼれ落ちるように光り、肌はしっとりして、口紅をさしている。竜宮城の乙姫様を見たようであった。日本はいい。

•••

名古屋駅に着き、家に向かう途中、変わり果てた名古屋の街を市電の窓から、私は茫然として眺めていた。

桜山から家までの砂利道を歩く。懐かしい土の感触を楽しみながら、私は黙って歩いて行った。
今、この土、日本の土をしっかりと踏みしめたいだけである。
生きていることが信じられない。信ずるためには、その足で、その土の響きを、体に当分の間蓄積すること以外にはあるまい。
私は黙って歩いている。黙って歩いているだけで充分であった。」

(父の手記書き写し。75回目の終戦記念日に)


呟きのように何度も繰り返される

日本はいい。日本はいい。

という言葉。この言葉にまさる言葉はない。
心の底からの気持ち。
静かな叫び。
どれほど待ち望んでいた帰国であっただろう。 
国破れて山河あり。
敗れても山河は残っていた。
その日本の緑滴る山河のある限り、自分は生きて行ける、と父は言った。
敗戦の惨めさをとことん味わった父への、日本の山河からの、生きる力の贈り物であった。

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