見出し画像

雑記 51 Yoshieさんの薔薇

画像1

今年の秋もまた薔薇が咲いた。
毎年5月と9月、薔薇は忘れず咲く。もう10年以上、春、秋、春、秋、と繰り返し美しい花を開く。これをあの世の親友からの通信と私は感じている。

親友のYさんが、癌を発症したのは、もう10何年も前のある年の5月だった。Yさんは母親を60歳で乳癌でなくしていた。「うちは癌の家系だから」と言って、50歳を過ぎてからは誕生日には必ず毎年区民健康検診を受け、加えて、追加の癌検査も怠らなかった。
58歳の時、全く問題なし、と検診結果が出て、安心したその3週間後に、左脇の付け根のリンパ節が腫れ、病院に行って悪性リンパ腫であるらしいことが分かった。
悪性リンパ腫は治癒する割合も高く、何とかなる病だと希望を持っていたが、その後、かなり経って乳癌からの転移であることが分かった。
なぜ分からなかった? そのために毎年念入りに検査していたのに。

画像2

やりきれない思いだった。本人はなおのこと残念な思いだったろう。
お定まりの癌治療を受け、副作用に苦しみ、頭髪も抜け、それでも、時に具合が良くなって、このまま治癒するのではないか、と思われる時もあった。
希望の光が差し込んできたようだった。

ある日、旦那さんの運転で、遠出しよう、ということになった。SUBARUのLEGACY。買い換えたばかりのピカピカの新車で、

さあ、どこに行こうか?

私達は口を揃えて言った。

玉村豊男のヴィラデストがいい!
玉村さんのところに連れて行って!

ところが、そんな時、私達が日頃褒めそやすヴィラデスト農園主玉村豊男に嫉妬したのだろうか、旦那さんは黙って全く方向違いの場所に自慢の車を走らせ、着いたところは、栃木のあしかがフラワーパークだった。玉村豊男だって、旦那さんだって、いい歳なんだから、もう今更、張り合っても仕方ないんじゃないか。

毎月『家庭画報』にヴィラデスト便りを連載し、広大な葡萄畑を所有して、ワインを作り、絵を描き、料理をする。自宅も敷地内のレストランも、センスあふれ、優雅に暮らすように見えて、女に人気のある奴は、ちょっと妬けるのかも知れない。

亡くなることが、確かに分かっていたら、フラワーパークでなく、必ずや、ヴィラデストに行ったと思う。だが、その時は、もしかしたらこのまま治るのではないか、と思われる状態だったので、旦那さんは自分の好きなところに車を走らせたのだろう。

え〜、玉村さんのところじゃないの?

と私達は不平を漏らしたが、来てしまったものは仕方がない。

花々を見るのはとても楽しいことだが、我々は、今回の目的は、花より男子、新車が来たら、それに乗って、長野県上田市の玉村豊男に会いに行きたかったわけで、落胆の色を露わにした。
私達は、いい加減薹の立った熟女であるが、長い間、是非行きたいと言い続けていて、その心の華やぎを察したか、旦那さんは、どうしてもそいつのところには行きたくない、と思ったかどうかは分からないけれど、行かなかった。

あしかがフラワーパークでは、不満のうちにも、それなりに楽しく時を過ごし、帰り際に、入り口の売店で、薔薇の苗木を買った。
それが、この淡いクリーム色の「チャイコフスキー」という名の薔薇である。
花も野菜も苗次第、とはよく言われることである。980円のチャイコフスキーは、その後も、たいした厚い待遇も受けないにもかかわらず、我が家の猫の額ほどの花壇で立派に咲き続けている。

花が終わると、大きな実をつけ、赤く熟す。ローズヒップと言うのだろうか。その実がほしい、と見ず知らずの人が我が家の玄関のベルを押すこともある。

画像3

またある時は、花壇にしゃがみ込んでいる男性がいた。私は出かけるために玄関の鍵を閉め、外に出て顔を合わせてしまった。
「ここに、◯◯を落としてしまって、、、」
と男性は狼狽して言い訳した。男性の手元にある小さいハサミを見て、私は、何をしようとしていたのか理解した。
「薔薇の枝が欲しければ、どうぞ切ってお持ちください。」
そう言って仕事に出かけ、帰ったら、根本あたりのひと枝が、切り取られていた。
その後、何と言うことだろうか、薔薇は勢いがついたようにスクスクと真っ直ぐに伸びて、次の花期から今までの倍の花をつけるようになった。
きっとその花泥棒の剪定がうまかったのだろう。それとも惜しまず分けてあげる、という心持ちに対する神からのご褒美かも知れぬ。

画像4

彼女の病が急激に悪化したのは、フラワーパークに行った翌年だった。年が明けて、2月の中旬には、まだ一緒にイタリアンに行き、最後皿に残ったひとかけを、2、3度譲り合って、じゃあ、と言って、笑いながらジャンケンで決めた。だから、そんなに悪くはなかったと思う。
春になったら、今度こそ、ヴィラデストに行こう、と言っていて、春の到来を待ち望んでいた。

その後、間もなく、3.11東北大震災が起こった。
東京のスーパーや店からも、水や米がすっかりなくなった。

携帯メールで、
「どこに行ってもお米がないの。分けてくれる?」と書いてきた。

「いいよ。何キロ?」

「5キロ」

これが、彼女との最後の会話になった。
宮古のご実家は、テレビで映し出される画像では、津波ですっかり流されて何もない平らな土地になっていたし、そこに住んでいた足の悪い高齢のお母さんとは連絡が取れず、無事避難できたかも確認が出来ない。
心配ね、と言っているうちに、彼女が緊急入院した、と旦那さんから連絡があった。
大変!お見舞いに行くから、病室の番号教えて。
と言ったが、今、取り込んでいるから、後で連絡する、と返事があった。

それから1週間もしないうちに、用事で印刷屋に行ったら、商店街の店の回覧で「Yさんが今朝早く亡くなりました」という知らせが、至急回覧、という赤い判を押されて、回ってきた。

あんまりいい人だったから、震災であの世に行く沢山の人からの希望で、一緒に連れて行かれちゃったのかもしれないと思うのである。
私はこんな性格だから、友達は多くない。彼女とは28年間の付き合いだった。本当に辛い。

挨拶もせず行っちゃってごめん。こっちで猫達と快適にやってるから安心して。お宅の猫も皆来てる。面倒見るからどんどん送ってね。時々現実世界を覗きに行くよ。あなたも、元気で。また会おう!

花が咲くと、そう薔薇は言う。

3匹も4匹も同じ、と言って、次々と、我が家に猫をぶち込んだのは、彼女だ。

画像5

#悪性リンパ腫 #ステージ4

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?