「話す」は感情、「書く」は理性
とあるきっかけで、少し前からラジオで一人語りを始めることになり、「話す」ことの効果を実感しています。
もともと話すことは得意ではなく書くことの方が自分の気持ちを表せるからと敬遠していましたが、もう少し冷静になって理解をしたく、こうして言葉でまとめたくなりました。
みなさんにとっての話す / 書くとは違うかもしれませんが、もしご興味ございましたら、お読みいただけますとお幸いです。
話すは一発勝負でライブ感があり、その場でつくられるもの。書くは書いた後に眺め、書き直すことができるもの。
自分がなぜ話すが苦手かと言うと、その場でつくりあげるプレッシャーとアドリブ性が怖いからなんだと思います。
間をとるのなら一筆書きが近いのかもしれませんが、やっぱり一回で決まってしまうことがどうにも怖いのです。訂正ができない、描いていた通りに言葉が出てこない、声が出てこない。
昔から何かに夢中になることが怖くて、それは言い換えると、主観で埋め尽くされたときに周りの空気や環境を置き去りにして一人になるのが怖いから。
客観的にいる方が楽で、周りが求めるものを察知してから、そこに自分の意見を差し出す。例え自らの意志を発揮できずとも、場が落ち着けば、喜べばOK。
話すは感情と欲求であり主観。書くは理性と合理性であり客観。
こうして書くコミュニケーションを選びとってきたからこそ、話すは弱点としてメインには据えなかったのですが、話すをしてみたことで思った以上に感情が揺れ動くのを実感したのが今回の体験でした。
一つ前のnoteで、いまは仕事での自分の振る舞いが人と付き合う上では最も心地よいと書きましたが、これはリモートワークで感情が介在せず、かつ合理性を優先して相手に合わせられているからだなと思います。
いつも、どの職場でも人との関わりは初めはこのように順調なのですが、理性的に相手の要望に応える関わり方をし続けていくと、相手がそれに甘えて当たり前になっていきます。
こうして我慢できなくなり、こちらが欲を伝えると初めから言ってくれよと言われてしまう。
なんだかこちらが被害者のように扱われ後味悪く話は終わり、その場で解決したように見えて、自分の中ではしこりがたまっていく。
今までの職場で苦しくなったときのことを思い返すと、なんだかコミュニケーションのボランティアをしてしまっている気分で、割に合わなくなって辞めているんだろうなと思うのです。
話す/聞くは心の距離が近くて。近くなればなるほど相手を信頼する分、疑う。経緯を強固に気にするし、言行一致を確かめてしまう。
書くでは冷静を保てるけれど、話すは感情的になるからこそ思い出も色濃く残り、マイナスが溜まっていくと離れたくなる。
冒頭に話は戻りますが、話すラジオをしたことにより、今まで以上に自分の感情の機微がより細やかに、解像度が高くなっているのを実感しています。
リモートワークがメインの中では冷静であるからこそ無味乾燥になりがちで、また理性をもって話すからこそ感情的に振る舞う場面は少ない。
そんな中で、話すラジオは自分の感情を全開にする行為。何を話すか?なんて関係なくて、自分自身が心地よく話せるのならば何でも。
まるで疲れた身体に温泉が染み渡るように、理性的な一日だからこそ「あぁ、今日の自分ってこんなだったんだな」と寝る前に思い出してしまうような。
こんなことを言いながら、まだまだ試行錯誤中ですから、自信をもってお見せできるようになったら、またどこかでお見せできればと思います。
みなさんの書くと話すはいかがでしょうか?
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