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すでにそこにあった、読む習慣

noteを読むことは細々とした習慣ですが、不思議と続けられています。

なぜ?と考えてみると、すでに今までもいろんなものを読んできたのだと気づき、今こうして認めております。

学生時代は教科書を、社会人になってから空気を。

街中の看板やメールなどの単純なテキストを読むこともあれば、その場での流れを読んだり、前後の文脈を読むことだってあるのでしょう。

みなさんは日々、何を読んでいますか?


* Prelude

もしかしたら、書くよりも読む方が多いとさえ言えます。思い返してみると、幼い頃だって、書くよりも読む方が先だったはず。

こうして多面的に読むを捉えてみると、それが意味するものは「理解する」なのではないかと思っています。

自分の頭の中に取り込み、咀嚼して受け止める

最近noteを読み始めて、とても「読めている」のは、共感できたり、すっと自分の頭に中に浸透して、理解できるからだと腑に落ちました。


* Story

いま「読む」に没頭できているのは理由があって。

つい最近まで受託系のものづくりの世界で、より多くの人に素晴らしい体験を届けることに向き合っていました。

けれども目に見えない不特定多数の人を理解しようとすることに頭と身体がついていかず、「読みたい=理解したい」気持ちはあったけれど、どこに向けていいのかがわかりませんでした。

少し疲れていたのかなと思います。

だからこそ誰か一人の気持ちに寄り添い、言葉を届けるLetterの活動をしたいと思ったのです。

今とてもnoteを読めていて、これは誰かを「理解したい」と言う自発的なサインなんだと思うのです。


* Finale

「書く」もそうなのかもしれません。

今まで「書かされる」ことが多く、届けるべき不特定多数があらゆる条件で決められて、届けるために「書く」と言う手段をとらされる。

自らの意志を、願いを込めた「書く」ではなく、届けなければいけない相手にコミュニケーションするための一つの手段として扱われる。

「書きたい」という能動的な営みではなく、周りをすべて固められて、あとはシュートを打つだけと言う状態で来たラストパスに無感情で応えるだけ。

自分じゃなくてもいいじゃないか

なんてことを言ってもどうにかなることもなく。隣を見れば、同じような状況に無表情のまま書くを行っている人がいる。

これ以上、「書く」を汚したくない。それだけは唯一、譲れなかった。


* おまけ

最近はnoteを書くときに気持ちとリンクする作業用BGMを選んでいます。日常から非日常にトリップするためのおまじない。

今回はこの曲です。

タイトルの意味は「民話」。意識的に自分が変わっていくのはいいけれど、無意識のうちに認めたくない自分に変わっていくのは嫌だなと。

どうか、「書く体験」で同じように潜っている人の隣で響く言葉となりますように。



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