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燃え盛る炎に、数滴の雫

「話さない」ということは、自らの意志をそこに入れないことだと思っています。

昔、欲と保身で渦巻いた職場に所属していた頃、意図的に「話さない」という態度をとっていたことを思い出しました。

自己防衛と一言で片付けるにはあまりに物足りなくて、今まで解き明かしていなかった分、なんだか言語したくなりました。

本日の導入は短いですが、これくらいにして。




「話す」ことは、自らの考えや感情を言葉にして発露することで、世界に影響を与えることだと思っています。

発信する行いなので、当然、受け手がいないと成立しないわけで、何も考えず話しているように見えて、「話すことを導かれている」わけです。

取り巻くその場自体に、聞き手である誰かに導かれて、話すという行いが許されているはずです。

なんだか「話しづらいな」と感じるときは、その場から話すことを許されていないわけで、だからこそ話す本人だけの問題ではないし責任を感じなくてもいい。

それくらい共同で作り出されるもの。

しっかりとしたステージが用意され、観客がいるからこそアーティストは気持ちよく歌える。笑いに来たお客さんがいるからこそ芸人はお笑いを披露できる。

コロナ渦の無観客試合が生み出してしまったのは、この応答のなさで、そうなるとあまりにぎこちなくなる。

意識しすぎてどのように歩いていたかわからなくなる、同じ手と足が一緒に動いてしまう、あの現象のように。




話は冒頭に戻りますが、私が断固として「話さない」態度をとっていたのは、丁寧に考え、育てた私の想いをあんたなんかに託してやるもんかという反骨心であり覚悟なのです。

ろくに話も聞かれず、無下にされる。

もしくは、相手が話したかった言葉を引き出すための餌となる。存在さえも忘れられたような、あまりにも小さな前座。

一回の言葉で意志を語り尽くすにはあまりに少なくて、強制的に聞き手のタイミングで話す権利を奪われ揚げ足を取られて、本来話したかったことは一切、話せない。

話を聞いている風に見えて、しめしめと自らの欲求を発露する場所を見つけたことに得意げになり、エンジンがかかって話が止まらない。

そう、この場ではこちらが話すことは求められていない。

全く違う言語のように会話が成り立たない。いや、会話をする気などないのでしょう。

話すというのは自分の意志を差し出す行為だ。

その意志を否定されることは、存在自体を否定されることと同じ。そうであるならば、話そうとすることこそが無意味だ。だから話さない。




強引に結びつけてしまうけれど、聞き手であるこのオーナーはひたすらに結果主義であるとも言える。

目の前に起こる現象の一秒一秒を感覚的に捉えて離さない。すべてを自らの納得のいくように塗り替える。

だからプロセスなど、全く関係ない。ほしいのは結果だけ。だから瞬時に結果の主導権を握り、用が済んだ後は過去として扱い、忘れる。

それも一つのプロセスとして、なかったことにして。

何か問題があったとき、原因に目をやらず、結果だけを見て弾劾する。

原因に目配せはするものの、説得力がある声の大きなものだけを採用し、少数派の意見はなかったことにする。

自らの欲のままに手に入れたものもあったけれど、上層部を筆頭に社員を利用して使い捨てて、不都合なことは何一つ明かさないこの人格に、毒されていたのも事実。

あぁ、離れてよかったといま安堵する。

たまには、こんな昔話。




noteを書くときに気持ちとリンクする作業用BGMを選んでいます。日常から非日常にトリップするためのおまじない。

今回はこの曲です。

静寂の中、小さな想いを育てて育てて囁くように外の世界に発露していく。

どうか、同じように潜っている人の隣で響く言葉となりますように。


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