見出し画像

就活スタイルは個性を否定するか。

最近、電車の中で部活のユニフォームを着た女子中学生グループを見た。

彼女達はユニフォーム以外にもスポーツバックや髪型さえも同じだった。全員同じ格好をしていて、ぱっと見で誰が誰だか判別できない。その統一感が強豪感っぽいな、となんとなく思っていた。

しかし、しばらくボンヤリ眺めていると、その子達の区別が徐々にわかってきた。ちょっとだけ背の高い子は姿勢も良くハキハキと話してるし、背の低い子は柔和な笑顔で愛想を振りまいて

名前さえ知らない子なのに、外見の情報(顔・服・髪型)ではなく、内面の情報(姿勢・喋り方)に自分の注意が向かっていることに気がついた。

こうなった理由は単純だ。外見で判別が難しいから、つまり「限りなく外見が統一されているから」である。

服装や髪型を規制する事は「自由を奪う=個性を奪う」と認識される事が多い。しかし、規制したから逆に個性が出る事もあるのだ。このような例は至る所にある。


例えば、「個性は(同じ問題への)対処の仕方に出るのであって表現に存在するものではない。個性は出てしまうのであって個性的な表現をする事に意味はない。個性とはそんな表層を指す言葉ではない。」とデザイナーの佐藤卓も言っている。

科学実験においても「ある特性を見るために他の条件を統一する」事がよくある。

このように、表面上の個性(とみんなが呼んでるもの)を取っ払った時にはじめて本質的な個性は出てくる。


そう考えると、「リクルートスーツで面接を受けるのは個性の剥奪だ」と呼ぶのに疑問を感じる。

そもそも、前提として髪型や服装などの「外見情報こそが個性」だと考えられてる事に違和感が生じてきた。個性は考え方などの「内面情報」に出るものではないか?

リクルートスーツなどの就活スタイルは「外見情報というノイズ」を取っ払って「内面情報という個性」を見やすくする良い方法なのではないかと思う。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?