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わけわけから生まれる、笑顔のわけわけ

今、仕分けをしている。

仕訳ではない。

いわゆる事業仕分けだ。


私にはいろいろな顔がある。
事業の代表者であり、母であり、保護者であり、自宅待機(基本)係であり、妻であり、子であり、友人の友であり、自治会の班長だ。

その顔にはそれぞれ、大なり小なりの理想と現実と作業がついてくる。

この事業仕分けは、それを分別する作業だ。


私は好奇心が強い。
好奇心が強いというといいことのようにも聞こえるが、要は刺激に弱い。
何か面白そうなことがあるとすぐに飛びつこうとしてしまう。
衝動性も高い。

結果として、タスクが積み上がるのである。

タスクが積み上がるとどうだろう。
やりたいことでいっぱいだったはずの私の中の未来が、あっという間にやらなきゃいけないこと、もしくは『できなかったこと』でいっぱいになる。

なんてこったい。
あーやだやだ。あーやだやだ。

寝る前に「あー、終わらなかったー!」と思いながら渋々ベッドに向かうのである。

なんだったらその不満足感を払拭するためにSNSを見て、「あー、寝ないといけないのに!睡眠時間を削ってしまった!」という不満足感を更に膨らませつつ、焦りの中眠るのである。

もちろん目覚めた時の目はショボショボだ。

ショボショボの目でショボショボしながら、ミッキーのオムツとチップのおむつとをどっちが履くかで大揉めしている子供らに朝ごはんを作る。

朝っぱらからご飯が空を飛ぶ。
イライラも朝から大盛り上がりだ。


イライラは置いておいて、本当にあまりにも目がショボショボゴロゴロするので、これは目に関してはとうとう老眼なのでは?と眼科へ行った。

「日焼けとかドライアイとかですね。治していきましょう!」

症状を見た先生からの、おそらくは普通の診断の説明。
しかしなんだか私は驚いてしまった。

治るんだ!
消耗していたんだ!!

もう加齢は仕方ない、永続していくものだろうと思っていたものが、治るものだという。
私が標準だろうと思っていたものが標準ではなかった。
ショボショボしない、に戻れるらしい。


私の望む標準、ってなんだろう。
改めて考える。

我ながら眼科行っただけでそれだけ発想が飛躍するところすごいなと思わないでもないが、ユーミンも言っている。全てのことはメッセージである。
何かの言葉が自分のアンテナに引っかかったのなら、その問いには向かい合う価値があると考える。考えたい。

話を戻す。

私の望む、標準である。

おそらくは現在私はとても「がんばる」の状態にいる。
オオシタ100%である。

結果として、とてもパフォーマンスが悪くなっている。
100%自分を発揮できているというわけではなく、私のキャパシティが全部使われているという意味での100%である。

継続するための休養も足りなければ、インプットも足りない。アウトプットなんか今現在キーボードを叩いているこのnoteが久々だ。

私は会社員時代に120%猛ダッシュしないといけない時期があり、更に決算期に150%走り、心身ともに半壊した過去がある。

人間は60%を標準に、ここぞというときは決断して80%がんばり、ラストスパートで100%自発的に自分を発揮する。
120%なんて出産時の最後のイキみ時など瞬発力が必要なとき以外はしないほうがいいのではないか?という仮説を持っている。

細かい数字は人それぞれ違うだろうが、私の中のイメージはこれ。

そうなるとやはりいくつかの何かを手放す必要がある。
それを何にするか。

それが私の事業仕分けだと考える。


じゃあ何を手放していくか、いきたいか。
考えたところ、迷いなく出てきたものがある。

食事にまつわるあれこれである。

考えれば考えるほど主婦業ってなんやねん感はあるが、それは一旦おいておいて。

私は食べることは大好きだが、食事を作ることが好きではない。
なぜ一番お腹が空いている時にこんな作業が必要なんだ。
意味がわからない、と感じてしまう。

好きではないので勘も働かず、自分の好きな味にアレンジするぞ!とかのアイデアも湧かない。

それだけモチベーションが湧かない食事作り時に、同じくお腹が空いている子供たちが大喧嘩するのである。
乗れる牛乳パック電車をちゃんと二人分作ったにも関わらず、両方にいっぺんに乗りたいとかなんとか謎の理由で取り合いが発生するわけである。

そしてまた、我が姉弟、立派な肺を持てたおかげか声がでかい。ひたすらでかい。ご飯を作っている間、爆音で泣いている。
もはやつけているおかあさんといっしょの音声も聞こえない。

こりゃ無理だ。ダメだ。当たり前だ。
無理無理、ということでこの時間に助けを求めることにした。

ベビーシッターさん、そして娘の訪問看護を入れることにしたのだ。


手足ともに一般的な発達ではない娘のフォローのためのPT、OTの先生や看護師さんに夕方入っていただき、療育をしていただく。

または一般のベビーシッターさん…を調べたのだが障害児は断られてしまったので、地域の子育てボランティアの方に短期間入っていただくことにした。
ファミサポさんは近所におらず、現在シルバー人材センターも検討中だ。

要は一番自分が疲れており、標準からかけ離れているしんどい時間、夕方を一人で乗り越えない。私を、ではなく、子供たちと遊んでくれ、助けてくれる人員を増やすという手段に出たのだ。

実家、義実家ともに遠方なので、地元に味方が欲しいと常々思っていた。
これはつまり、味方作り作戦なのだ。

おかげさまでここ二週間ほど入っていただき、感染症が猛威を振るう保育園から数度お迎え要請があったりと落ち着かない日々ではあるが、私のキャパシティにちょっと隙間ができてきたことを感じる。

好奇心だけが爆発しないで、実行に気持ちを向けられているのだ。
自分が自分の時間を使えるという安心感がある。


人はやりたいことしかやらずに日々を過ごしている。
休憩だってボーッとすることだってやりたいからやっている。
そこに正負の評価は関係ない。

ただし、時間も体力もキャパシティも有限である。

だから何をやめて、何を減らして、何を託して自分のものに時間を取り戻すか。

それには自分の顔を知り、事業を知り、どこを押さえたくて、どこを取り除きたいか、考えるしかない。

そして手放していくしかない、と実感した。

1に隙間、2に隙間、3、4がなくて、5に隙間。

もっとがんばる!ではなくて、どうすればがんばらなくて済むか。
呼吸がもっと軽やかになるか。
笑っていられる人数を増やせるか。

そんなところ、引き続き考えていきたい所存。

よーし!
ぽぽぽぽぽーい!


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