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いのちのものがたり外伝〜老師編〜パンドラの箱

 私は大陸の外れ、山と海に囲われた入り江にいた。そこに、私に会いたいという老師がいるらしい。どこで私を知ったのか、人伝に便りが届いた。

この世界を織り成す綾を解いたなら

そこには何があるとお思いか

それはただの・・・

追い求めないことだ

パンドラの箱は開いた

どうしてこの世が出来たのか

最初を見るがよい

追い求める崇高なものは

醜い感情の中にある

ならば醜いものをみろ

箱は開いた

 この手紙が届いたのは、3年前、私は旅の途中で、この老師の使いだという若い男に出会った。その使いの者は、老師の弟子だと言ったが、私はその人が老師自身だとわかった。姿形を変えられるのか、とその時は思った。

 それから3年の後、私はこの場所にたどり着いた。意図して来たわけではないが、寄ってみることにした。そこは、とても静かな入り江だった。人の気配はしない。このような場所に人が住んでいるとはとても思えなかった。

 「お久しぶりですね、お待ちしていました」振り返るとそこには3年前、私に手紙を渡した若い弟子がいた。『ええ、近くまで来たので』「さあこちらへ」弟子は軽く微笑んで、道なき道を歩き出した。30分ほど歩くと、山の中腹で弟子は立ち止まった。

 「ここです。お待ちください」彼が茂みに姿を消したと同時に、初老の男が背後からやって来た。「よくいらした、旅は順調かね」『なぜそれを』「なんでも知っているよ、わしはあなたの守り神のような者さ」そう言って老師は笑った。私は薄気味悪さを感じて身震いした。この老師と名乗る者は何者なのだ。

 「そんなに警戒することはない。あなたに危害を加えられるほどの力は、わしにはない。あるのは夢見の力くらいだ。」『夢見?』「ある時、夢にあなたが現れてな、叡智を授けている夢だ。わしの夢は全て本当になる。それがわしの力だ」

 『それで私に使いを』老師は静かに頷いた。「あなたの器は広い」『それだけか・・・』私は思わず呟いた。「ははは、わしには夢見の力しかないのだよ、その夢にあなたが現れた。それだけのことだ。さあ、ひとまず暖を取ろう」そう言って老師は、私を小さな洞窟へ案内した。そこは暖炉と腰掛け、茶器などがある原始的な祠の様だった。

 「ここへはどの様に来たのだ」老師が尋ねた。『成り行きに任せて』私がそう答える前に老師はすでに笑っていた。分かっているのなら無駄な質問をしなければいいのに。「そうむくれないでおくれ、人は会話をするものだろう。私とあなたの様に、たとえ言葉を発する前に分かったとしても、会話は楽しいものだ」『ところで、あの手紙の真意は何なのですか』私は間髪入れずに尋ねた。

 「うむ、手紙、とな、わしにも分からん」『?!』「ははは、どの様なことにも、手順と言うものがあろう。あの手紙はあなたがわしに授けたものだ。そなたは自分の言葉をわしに聞かせ、手紙を書かせたのだ。夢の中で」『そうでしたか、しかし、私にはその自覚はありません』「それはそうであろう、あなたは今、目が覚めているからな、いや、こちらが夢とも言えるが」老師の話といえば常にその様なもので、会話という会話は全て、示唆に富んだものだった。

 『日暮れ前に、ここを立とうと思います』「そうか、では一つ質問していいかね、あなたはここへ来る時、若い頃のわしに出会っただろう」『ええ』「なぜそれが分かった」『瞳です』「ははは、わしに出会う前に、なぜそれがわしの瞳だと分かったのだ」そう言われて、私は言葉に詰まった。なぜ会ったことも無い老師の瞳が分かったのだろう。『わかりません、ただ、わかっていました』「そう、人は答えを求めて紛争するがの、真実というものはただわかっているものだ。それ以外は幻といえよう」『だとしたら、幻によって人は右往左往しているのですね』私は答えた。

 「幻自体に力は無いがの、何かに力を与えるのは人の意思だ」『そうですね、しかし』「そうじゃ、人は意外とそれに気がついておらぬ」『熱っ』暖炉の火が爆ぜ、火の粉が顔に飛んだ。熱さを感じながらこれも幻なのか、と思った。「意思は形が無い、形がないものは形を作る種だ。わしの夢も現実になった。そなたの力はなんだ?」『力・・・』「そうだ、思いも寄らぬか」『はい、考えたことがありません』「そなたは、わしの夢に出て手紙を書かせた。それは何故だ」『無意識でしたことです』「そなたの無意識は凄い力じゃな」そう言って老師は笑った。

 『無意識の力?』「そうじゃ、そなたはまだその力を意識しておらぬが、いずれ解るだろう」『いずれ、ですか』「ものには順序があるからの、そなたはまだ旅の途中、わし以外にも沢山の人に出会うはずじゃ、それはそなたの無意識の力が導いておる」老師はとても優しい顔でそう言い、火にかけていた薬缶から急須に湯を注いだ。洞窟内に茶の香りが立ち込める。

 その香りを嗅いだ瞬間、不思議なことが起きた。私の意識は別の空間に飛んだ。私はどこかの宮殿の冷たい床の上で舞っている。それは、見る者のない舞で、空間と溶け合う様な踊りだった。「どうされた、何かを思い出したかね?」『はい、どこかの宮殿で舞っている姿が見えました』「君は仕える者だったのかい?」『いいえ、私はただ舞う者でした』「そうか、やはりあなたは超越した人だ」そう語る老師は、何か言いたそうだったが、決して口には出さなかった。

 『老師、そろそろ行こうと思います』「そうか、またどこかでな、近くの港まで彼に先導させよう。彼はわしより色々と役に立つであろう」彼、とはあの弟子のことを言っているのであろう。老師は暖炉に砂をかけ、火を消した。洞窟の出入り口から外の光が見える。まだ日暮れ前だ。私は一礼し、その場を後にした。

 「行きましょうか」外に出ると老師の弟子が木にもたれ、こちらを伺っていた。私は振り返ることなく、頷いた。老師と弟子を観ていると、一生の内に出会える人は、ほんの一握りなのではないかと思えてくる。同じ人が姿を変えて、幾度と無く出会いと別れを繰り返しているのだと。「何も考えないことですよ」前を歩く弟子がそう言った。

 森の中を歩きながら、私はあの手紙のことを思い出していた。パンドラの箱を開けたのは私だ。あの箱にこの世界が出来た時の、影の感情を仕舞ったのも私だ。それは閉じ込めたとはいえ、常に裏で動いていた。そうしてこの世界の歴史が動き、この世を創ってきた。その封印を解いたのだから、誰もが醜いものを見るだろう。それは元々あったものだ。言いようのない開放感と、胸騒ぎを感じながら私は歩いた。

 「そういうこと、だったのですね」と弟子が言った。言葉が要らないのは、良いようで詰まらないな、と思いながら私は返事をした。『ええ、この先はそれぞれが解放されていくでしょう』弟子は不意に振り返り、私を抱きしめた。「ありがとう、あなたも解放されてください」ほのかな百合の香りが衣服からした。どこかで嗅いだことのある懐かしい匂いだった。「乳飲み子は母の香りがするのですよ」その言葉を聴きながら、私は巡るいのちを思った。

 辺りが夕闇に包まれるころ、私たちは港についた。「まるで一瞬が永遠の様ですね」そう話す弟子の横顔は、別れを惜しむでも無く、何かが始まる前のような、静かな闘志を感じた。始まりと終わりはいつも一緒だ。

 『案内をありがとう、あなたはずっとこの場所にいるの?』「いいえ、どこにでも行きますよ」『では、私と共にしばし当てのない旅に出ましょう』弟子は一瞬息を止め、大きく息を吐き出しながら言った。「夢の様な提案ですね、いつ思い付いたのですか」『今よ』私は躊躇なく答えた。「やはり、、では、行きましょう」そう言って彼はとても無邪気に笑った。


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