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生きなやむ人 その8

・現代の無縁人

つい先日書店で林明子さんの本を読みました。林明子さんの絵本を初めてよんだのは「きゅ、きゅ、きゅ」と「はじめてのおつかい」でした。実家にありました。去年渋谷東急の書店でフェアをやっていた際に「こんとあき」を読み、感銘を受けました。3月に沖縄に行った際に、姉にもお勧めしたことから2歳半の子も繰り返し、繰り返し「こんとあき読んで〜」と一緒に読みました。書店でこんのキーホルダーを買ったのですが、今後下の子が生まれると、時々寂しい思いをするかもしれないのでカバンにつけていたものをプレゼントしました。
林明子さんの本は現実に戻った時にもう少し頑張ろうかな、という気持ちにさせてくれます。前向きです。人と関わるのっていいよな、家族もいいもので、兄弟もいいしという生活・家庭・生活に関してもこうあれたら、こうあったらいいよな、と思える部分が伝わってきます。悪い人の出てこないいい話であって、宮崎駿監督の作り出している作品と近いものを感じます。

 ただ、今の現代では、1人で生活する人、独身で将来を終える人、お互いの存在価値を認め合えるのが夫婦や恋人を持てない人もいます。私もその1人です。
労働者として社会と共存する中で知っていくのは、いい面よりも、ネガティブなところが大きいと感じています。労働者として、税金や、生かさず殺さずの社会で遠慮なく搾取してくるのが今の日本のように感じます。
 生活での苦しさを癒すためのものが現実逃避に走っているように思います。それでまた仕事に頑張ろうと戻れたら良いです。最近の一部の流行は、社会の中での苦痛を共感できるものが娯楽となっている傾向にあると考えます。流行に乗っかることでなんとなくうっすら自分を誤魔化して社会へ戻る仕組み、さらにそこでも、消費者としてエンターテイメントをみること、グッズや商品を手にすることで、さらに自ら好んで搾取されているように感じています。社会は販売、売り上げを考えているのでありその先のことまでどのくらい考えているかまでは知る術がわかりません。アルコール度数の強いお酒で依存を高めようとするのも、消費者として集客、売上にはいい面があり、脱却させるつもりもないように感じます。また、辛い部分の共有を組み込んだキャラクターグッズ(フィギアやぬいぐるみなど。子供ではなく今や大人がそう言ったものにすがり子供がえりしている傾向を感じます。辛い時に心の支えになるものが物になっているのです。自戒も込めて)一時的であっても勇気をくれる作用もあるのがメリットがあります。けれど、この傾向が強まりすぎると、守ること、育むことに消極的で自分を守ってもらおうとしている力が大きいのではないでしょうか。他者を守ろうとする積極性、役立てるような自分の身の振り方をできる大人が少なくなりませんか。状況にもよりますが、見て見ぬふり、関わらない方がいいという認識ではさらに自己中心を内在していた部分が余計に発展してしまいます。エンターテイメントでも現実に戻るときに現実を少し受け入れる、他者との関係に勇気を持てるものもあります。そういったものが求められているのでは、と感じています。もっと勉強していきたいです。
 また、自分に自信がない、自信がなくてもいいという意見もありますが、根っからの自信の無さや過剰な不安は、自分の行動、思考において破滅の道を歩もうとする危険性があります。自信のなさがポジティブに働くことは少ないです。物事に対して自信がないことは自己否定、行動できない、怯んでしまう、という勇気を飲み尽くしてしまうネガティブなものです。
また、自信について、行動や結果、スキルから得られる、得てきた自信と、自己受容に関する、自分の存在に対する自信の2種類を考えます。

 宮崎駿監督が本の中で「アミニズムとして日本人は昔から自然に対して信仰の念をいただいていたのでは」と書いてありました。これは岡本太郎の沖縄の御嶽に行った時の何もないところだったのだという衝撃を言語化していますように思います。岡本太郎は沖縄に関心を持っており、写真集と本を過去読んだことがあります。先月、御嶽に行った時、切れ目のある石、祈りの場に置かれた小さな四角い石と、それから豊かな植物が育った森がありました。
 私は、昔の墓参りを思い出しました。祖父の墓の雨よけの建物、隣は近所の人の墓、といった感じで3つの墓が並んでいます。水道は共用です。その横にずいぶん古い墓がありました。素朴なもので、自然光や、浜が近いので潮風のもとでボロボロになり、仏の形もかろうじてわかるもの、もはや石の置物として把握できるのが精一杯のものもありました。自然と時間の経過の中で削られてきたもので、これは無縁仏だったり、水子となった墓でした。その前にも小さな線香をかろうじて立てられる石がありました。墓参りの時には、一緒に線香を立て、手を合わせました。盆の時期でした。家がある人、故郷がある人の墓は立派だな、と思いました。初盆や、周期ごとに集まりや囲いがあったり、手入れがされていて、違うものだと感じました。
 就職してからお墓参りする機会も少なくなっており、手を合わせる機会が生活の中で少なくなっています。お坊さんのYoutubeで先祖に感謝すること、について基本は産んでくれてありがとう、という気持ちを持って先祖を祀るといっていました。しかし、それだけじゃないと思います。祖先であろうとなかろうと、水子であろうと、無縁仏であろうとその人の歴史があった存在価値を祈ることも、直接的には関与しない仏さまかもしれないけれど、手を合わせることにはそこにかつて存在した人を忘れないでおこう、大切にしよう敬う気持ちがあるのではないでしょうか。
 核家族化が進行し、血が繋がっていても家族であっても関わりの乏しくなった現代において、他人と自己との関わりはさらに乏しくなっているように感じます。また、社会の発生は家族としての関わりが最初の社会との接点となりますが、家族の中での自己の形成・愛着についてうまくいかなかった場合、自分というものの存在価値が自分でもわからない状態になっている可能性はないでしょうか。もはや無縁人と呼べそうです。
生きていく中で乗り越えないといけない辛い場面に当たった時、乗り越えられる土台がぐらぐらとしているのです。
この場合、もしも自分から能動的に、行動することができた場合、または運よく手を差し伸べてくれる人がいた場合、繋がりや縁を信じてみることができるのであれば、自分の居場所ができ、存在価値や守るものができたりします。
生きていると、それに出会える、大事なものが自分にも、相手、人以外でも、作品、愛犬や愛猫など様々は形を持ったものと出会えるというメリットがあります。
 全て塞ぎ込んでしまうくらいに苦しい状況にある場合、将来のことを考える余裕はありません。ただ息をして、排泄をして、心臓が動いているのを自覚して、ただ生きている状態です。能動的で、気力もないです。しばらく経っても回復せず、それで自己の無価値・無力感でいっぱいになり、精神的に締められていく状態であれば、生きているのか死んでいるのかよくわからない状態になります。
そういう時に、心が逃げたくなります。身近に生まれて生きているだけでいいからね、と言ってくれる人、そういう思いを伝えずとも一緒に居てくれる人がいればまた状況が変わる可能性もあります。ただ、無縁人の場合そう言った人は身近にいません。孤立した状態です。家族がいても、聞く耳を持たない・持てない人、自分の考えに固執する人、自ら孤立した状態を選択する人もいます。他者は良くも悪くも、自分との外との接点を、自分の力だけでは想像できない部分での刺激や関わりを与えてくれるきっかけとなります。
 変えてくれるヒーローは現実にはほとんどあり得ません。みんな社会の中で自分の居場所を守るので精一杯です。余裕がない社会が生み出した結果が今に思えます。
 人は頭(理性)と心(情)、体の3つの感情があると言います。
影響しあっています。ご自愛、と言います。もう嫌だ、逃げたいというのは心です。食欲もない状態は体にも影響しています。お腹が空くのは体は生きようとしているからです。働かなくちゃ、すぐによくならなくちゃ、と責めるのは理性の部分です。社会からみた自分の世間体を自覚し思い込み、しんどくなっています。
考えをもっと深めて理解できる時がくれば、と思います。せめて、自分の手を合わせてみるのもいいのかもしれません。
先日父から「今考えることじゃないのかもしれないね」と言われました。分かる時がくるのには時に長い月日が経ってから腑に落ちることがあります。
きっとそうなのだと思います。
分かる努力はしていきたいです。

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