55468_曽呂利書影

谷津は結局「曽呂利」(実業之日本社文庫)で何を書こうとしたのか

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 はい、ずっとお送りしていましたライナーノーツ企画もほぼ終わりに差し掛かっています。今回は「曽呂利」のお話全体のライナーノーツです。ずばり、この小説で何を書こうとしていたのかというお話です。

 本書、ミステリ読みの方から「まるでミステリみたい」とご好評いただいたのですが、実は単行本執筆当時はまるでそんな頭はありませんでした。むしろ、単行本版が世に出てから、「いやいやいや、ミステリなんて畏れ多い!」とガクブルしていたのはここだけの話です。なので、ミステリのジャンルの中に「操り」なるサブジャンルがあることも本を出してから知りましたし、「操り」から脱却してサスペンス的に転調する後半についてもそんなに意識せず書いていました。あくまでテキストの必然性に応じて形を変えていったというのがわたしの本音です。
 これもすべて、「曽呂利」というテキストにおいて表現したかったものが、曽呂利があの曽呂利になってしまった「理由」にあったのだと思っています。
 曽呂利新左衛門は時代の変化によって割を食ってしまった人物です。でも、今の時代、失敗してしまった人々に対して世間は非常に冷たいものです。「自己責任」と冷笑し、自分たちは奴らとは違ってバカではない、と鼻を鳴らす――。もちろん、一人一人は非常にモラルある方たちです。ところが、それが集まって一つの社会集団(世間)となった時、あまりに敗者に冷たい気がする、というのがわたしの感想です。
 わたしなんぞは大変小心者なので、こう考えちゃうわけです。

「もしも、『自己責任』と切り捨てられた人が、捨て鉢な復讐に出たらどうなってしまうのだろう?」

 自己責任を声高に述べる人々は「それも含めて自己責任、復讐の結果損をするのはそいつだろ」と鼻で笑うところでしょうが、果たして本当にそうでしょうか。
 今、わたしたちはインターネットという武器を持っていて、しかるべきところにアクセスすれば犯罪に悪用可能な知識をいくらでも仕入れることができますし、場合によれば犯罪行為に使う道具を取り寄せることもできます。他人にやさしくない社会は、結局のところ、自分にとってもやさしくないんじゃないのか。

 まあそんなことをわたしは考えたわけです。

 そしてわたしは歴史小説家なので、そんな現代への疑問を過去の話として仕立てたのです。
 もっとも、当時はインターネットなどはありませんし個人の力は抑制されています。だからこそ、曽呂利新左衛門という頓智の名人という高能力者を主人公にし、当時の社会のありように復讐せんとした一人の男を描き出したのです。

 他人にやさしくない社会の帰結である曽呂利新左衛門という怪人の誕生を描いたのが、「曽呂利」という本なのです。

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