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『新歴史・時代小説家になろう』第20回「年号と語りの関係」

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 今回はかなり細かい……というか、ややマニアックな話題であることを意識しながら話してゆきます。しかも今回の話題、小説の技法についてある程度理解がないとチンプンカンプンかもしれません……。
 と釘を刺しつつ。
 今日の話は、歴史、時代小説においては避けることのできない「年号」の表記についてです。

現代人は年号を使いこなしているけど

 さて皆さん。2020年現在の日本の年号はなんでしょう?
 現代、日本に住む人の中でこの質問に答えられないのは、外国にルーツをお持ちの方、あるいは子供かのいずれかなんじゃないでしょうか(あるいは何らかの事情で質問に答えられない状況か)。そうです。今は令和ですね。
 ではさらに問題です。令和の前の年号は?
 はい、お分かりですね。平成です。
 ではその前は?
 昭和ですね~。
 ではさらにその前は。
 もしかするとこの辺から怪しくなってくる方がいらっしゃるかも知れませんが、大正です。その前は? 明治です。
 とまあ、日本に住む人々の多くは、賛否両論こそあれ年号に親しんで生活しています。大体の人が、大正、昭和、平成、令和くらいまでは覚えておられるのではないでしょうか。
 現代、年号は日本史の時代叙述法として広く用いられていると言えましょう。
 でも、この感覚、案外新しいものだよ、ということは覚えておいた方が良いかもしれません。

昔の人は年号に親しんでない?

 もちろん例外は山ほどありますが、戦国時代の書状を読むと、年号が使われていないものが結構あります。「先年」とか「数年前」という相対的な年代のみが示されていることもよくあります。絶対的年代を用いたとしても、年号ではなく、干支(十干十二支)での表記がかなり多いのです。
 まあ、当時の人からすれば、書状をはじめとした古文書は、発行からすぐ目的を果たすものが多かったのであり、あえて年号を記す必要性は薄かったのでしょう。
 もちろん、昔の人も年号を使っていなかったわけじゃありません。でも、ややこしいことに、「私年号」なんてものもあったんですね。どういうことかというと、年号というのはある権力(日本の場合は朝廷や幕府)が認定し用いるものなので、その権力と対立している者は年号を独自に作ったり、以前の年号をそのまま用いたりします。
 これ以上書くとぼろが出そうなのでこのくらいにしますが、ここで皆さんにご理解いただきたいのは、どうやら当時の人々はそこまで厳密に年号を使っていたわけではないし、年号以外のもので時間感覚を把握していたようですし、場合によると年号そのものもオリジナルのものを用いていた場合すらある、ということです。
 今、日本に住むわたしたちが年号を混乱なく用いることができるのは、教育が行き届いていること、なんだかんだで日本が政治的に安定していて、内部に国を割るほどの深刻な対立が存在しないがためなのです。

視点と劇中年間

 さて、このエッセイは歴史エッセイではなく、あくまで歴史小説、時代小説のエッセイです。
 ここでわたしが問題にしたいのは、劇中年間の示し方です。
 えっ、単純に、「天正三年」でいいじゃない、とお思いでしょ?
 でも、先に見たとおり、年号は時代によっては皆が共有しているものではないですし、皆が使いこなしていたものではないっぽいものです。
 そのため、一人称小説や、三人称小説の中でも登場人物に近い叙述法を採用した場合、年号を用いるのが難しい場面が出てきます。
 一人称が特にわかりやすいですね。一人称はその登場人物の知っているもの、知覚できるものしか提示できないため、その人物が年号を知らない限り作中に出すことができません(言い方を変えると、年号を知っているインテリとして視点人物を設定づける必要がある)。それに、一人称小説や三人称でも視点が登場人物に近い叙述法の場合、「年号(西暦)年」表記も厳密にはアウトです。
 ほら、よくありますよね、こんな書き方。

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起こった。

 この書き方は、日本で使っていた年号にキリスト教由来のものである西暦を付与してやって作中年代を示しているわけですが、当時、年号と西暦を同時に用いることができる人なんてそう多くなかったはずです。なので、この表記ができるのは、厳密には三人称の神視点を採用した作品だけです。
 今、厳密には、と書きました。
 でも、時々、三人称神視点でなくともこの表記法を取っています(もちろんわたしも)。
 小説として世に問われているものはあくまで「小説」という作り物であり、であるからには、読者にわかりやすいよう、多少のリアリズムを犠牲にしても説明をするべき場面は存在します。
 この話、行き着くところは「機能」「美意識」の話なんです。
 「慶長5(1600)年」と表記しちゃった方が読者にはわかりやすい。でも、そうすると小説の形式上齟齬がある。さてどうしよう?
 ここまでこの話を聞いて、「こんな細かい話、べつにいいじゃん」というのも一つのスタンスです。いい悪いではないので、少し考えてみたい人だけ、続きを読んでみてください。

劇中年間のさりげない示し方

 つまるところこの話、劇中年間をある程度読者側に提示できればいいわけです。
 そのための方法はいくつかありまして……。
①有名な事件、人物を登場させる
 
これが一番ポピュラーなやり方です。日本史にある程度詳しい方なら、織田信長が出てきた瞬間に「おっ、戦国後期から安土桃山時代だな」となりますし、黒船が浦賀沖に浮かべば「幕末だ」となります。時代を示すシーンや人物を見つけ出して小説に登場させると、読者に大まかな時代設定を伝えることができます。
②金、銭を用いる
 
これは時代小説で主に使うテクニックですが、江戸期、小判は何度も吹き替え(金の含有率を変えること)が行なわれましたし、新銭の発行などもなされました。身近なそれらのもので時代を示してやるのも面白いでしょう。たとえば、「天保通宝(天保銭)」という銭があります。江戸後期の天保6年に発行されたものなのですが、名前に「天保」とついていますし、発行年代も知れているので天保以後だと知れますよね。
③劇中年間の流行を取り上げる
 
江戸後期の浮世絵を見ると、手ぬぐいを首に巻いている男の図を見ることがあるかも知れません。あの格好は江戸時代、ずっと流行していたものではなかったようです。どうやら天保年間のイケてる男子のナウい着こなしだったようです。
 また、あの時代、庶民は柄物は規制されていたため、裏地を楽しんだり、細かな色の違いを解することのできる感性を「粋」と称していました。こういう細かい部分を積み重ねることにより、わかる人には時代設定がわかるようにする、というテクニックです。
 他にもあるんですが、いずれにしても、ここから大事になってくるのは細やかな描写です。
 ここまで考えてきてなんですが、だったら三人称神視点にして年号をバンと書いた方が楽やんけ、というのも当然のことです。この辺りは、作品の雰囲気との相談になってくるんじゃないかとは思います。

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