見出し画像

『おもちゃ絵芳藤』(文春文庫)に出てくる絵師、河鍋暁斎について

【PR】

 本日、『おもちゃ絵芳藤』絡みでご紹介するのは、名前は聞いたことがあるんじゃないでしょうか。河鍋暁斎です。というわけで、早速ご紹介!

史実ベースの河鍋暁斎

 まず、この方、「かわなべ きょうさい」と読みます。
 いえね、一昔前まで、「ぎょうさい」と濁って読んでいたんです。ところが、どうやら「きょうさい」らしいぞ、ということになり、最近では「きょうさい」読みが主流となっています(余談までに、『おもちゃ絵芳藤』を担当してくださった編集者さん曰く、「以前担当した本では『ぎょうさい』とルビを振りました」とのことでした)。

 さて、いきなり余談から入りましたが、彼は幼少期、歌川国芳の門に入り絵を勉強します。ところが暫く経ってから狩野派に鞍替えすることとなり、狩野派絵師としての活動も始めます。そして一時は狩野派絵師として順風満帆な日々を送っていたものの、ちょっとした事件を起こし、それがきっかけで町絵師としての生活を始めます。
 そうして彼は、浮世絵師兼狩野派絵師、という二足のわらじの絵師となっていきます。
 そして明治に入ってからは、内国勧業博覧会で金賞を受賞したいわゆる「百円鴉」で名を上げ、狩野派の領袖に弟子入りし直して画派を引き継ぐなど、狩野派絵師としての立場を鮮明にしてゆく人です。
 明治期に入り、娘の暁翠や御雇外国人のジョサイアコンドルに絵を教えているのですが、どうやら彼は狩野派の技法を教え込んでいたようです。

 河鍋暁斎を語る際によく引かれるのが、彼の派手な「画鬼」ぶりです。
 たとえば、国芳門下の頃、つまり子供の頃、河原に落ちていた人の首を拾い家に持ち帰って写生していた、という逸話や、女中の帯に見とれて写生していたところ、女中に気味悪がられた(しかもそれが前半生、狩野派絵師としての失敗の原因となった)という逸話、明治に入り、書画会で戯れに描いた絵が問題視され一時投獄されたなどなど、逸話の多い人でした。

『おもちゃ絵芳藤』での暁斎

 さて、『おもちゃ絵芳藤』においては同じ国芳一門ということでかなり大きく登場させましたが、実際には、殆ど芳藤たちと係わったことはないでしょう。確かに一時期暁斎は国芳一門にいましたが、狩野家に入り直した以上、彼は狩野派絵師なのです。
 でも、わたしはこう思ったわけです。
「芳藤たちと関係があった方が面白くないか?」
 これはあくまで作劇上の話となりますが、芳藤、月岡芳年、落合幾次郎(芳幾)の三人が完全な同門で、割と密接な関係にあることを考えると、「一門でありながらちょっと三人と距離感があり、『国芳一門』を相対化できる人」がほしかったのです。
 そんな著者のもくろみから登板が決まった暁斎ですが、意外にも彼の存在によって作品の幅が広がった面があります。
 その一つが、小林清親の登場です。
 この方も後日お話ししようと思っていますが、この方が国芳一門とは一切縁がなく、一時期河鍋暁斎に弟子入りしていた時期がある(しかもその時期はめちゃくちゃ短かったとされている)人でしかないのですが、本作は河鍋暁斎との繋がりで登板が決まった人物です。
 また、コンドルもそうです。彼も国芳一門とは一切縁がないので、やはり暁斎繋がりでの登板でした。
 と、このように、暁斎は『おもちゃ絵芳藤』の幅を広げてくれました。
 そして、彼は「海外で評価された」という点において、作品内でも異質の存在感を示しています。
 冒頭で彼の読み問題についてお話ししましたが、雅号の読みが忘れられていたほどなのになぜ現在知られるに至ったのかというと、同時代から現在に至るまで、海外で高い人気を誇っていたからなのです。
 暁斎の生き残り方は、史実においても面白い……というか、独特の光彩を放っています。わたしが暁斎を本作に出そうと決めた裏には、ざっとそうした印象があったが故のことでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?