経験と「あこがれ」(9月新刊新刊『絵ことば又兵衛』で考える)
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前回
の続きなんだぜ。
前回はどういう風に「経験」を用いて小説家が小説を書いているのかをつらつら書いてきましたが、実は前回のエントリは、かなり綺麗ごとが含まれている……というか、経験の恐ろしさみたいなものをまるで説明できておりませんでした。そんなわけで、今回はその話をしようと思います。ちなみに今回は、9月刊行の『絵ことば又兵衛』を絡めつつ話をしていくぜ!
「まだ誰も読んだことのない本を例に出すとかお前……」
と批判の声が聞こえてきそうですが、全力で聞かないふりをします。
というわけで、『絵ことば又兵衛』、予約とかしてくださるとうれしいです!
と、ダイマはこれくらいにして……。
経験の圧倒的正しさ
人生における経験は、とてつもないリアリズムを有しています。当たり前ですね。だって、経験は現実なんですもの。
そうなんです。小説を書くにおいて「経験」がある程度ものをいうのは、それが圧倒的な正しさを有しているからなんですね。これはもはや正当性とすら言い換えてもいいくらいです。自身の経験は実際に存在したことであるがゆえに、とてつもないエネルギーが宿るんです。
「いや、こんなこと、あるわけないじゃん」
というツッコミに、
「いや、これ、実体験なんです」
と返すと、大抵の人は黙りこくってしまうわけです。
拙作『絵ことば又兵衛』は実在の人物(岩佐又兵衛)を主人公にした歴史小説で、「いやこれホンマかいな」みたいな逸話も多く有している人物です。つまるところ、
「いや、これ、実話なんです」
が成立しちゃうんですね。
というか、そもそも歴史小説自体が往々にして実話や学術的な知見によって補強することが可能で、
「いや、これ、実話なんです」
が可能なんですね。
でも実はこれには大きな落とし穴がありまして……。
「正しい」ことと「面白い」ことに因果関係はない
これはかなり慎重な議論が必要なことですが、「正しい」からといって「面白い」ことが担保されるわけではありませんし、「面白い」からといって「正しい」ことが担保されるわけじゃありません。
前者はともかく、後者はおそらく直感的にご理解いただけるんじゃないかと思います。
たとえばギャグマンガは「面白い」ですが、現実をそのまま映しているものではない場合が多いですよね。デフォルメや強調によって現実を歪ませ、そこにおかし味を見出す作品が多いのではないでしょうか。
それどころか、「面白さ」と「正しさ」が真っ向対立する場面も存在します。
具体的にどの作品とは申しませんが、主人公が世界を股にかけて活躍しているあるスポーツ漫画において、主人公に与えられる技術的課題が初心者向けのものばかりらしい、という話を耳にしたことがあります。でも、ある意味でそれはしょうがないことなんですよね。物事の上級者になればなるほど、技術的進歩は極めて繊細なもので、一般読者には通じづらくなるものです。むしろ、初心者に与えられる技術的課題のほうが、漫画として見栄えがいいというのはすごくよくわかります。
もちろん、上級者の微細にして繊細な描写を楽しめるお客さんもいらっしゃることでしょうが、そう多くはないはずです。もし、広範な支持(わたしの肌感覚だと10000人以上)を得て創作をしたいのであれば、「正しさ」だけではなく「面白さ」も模索しなくてはなりません。
「正しさ」と「面白さ」が正面衝突する瞬間
そして、「正しさ」と「面白さ」の間に因果関係がないということは、時として(あくまで時として)二者がバッティングし合うことも当然あります。この時に「経験」のあるなしが、悪影響を及ぼすことがあります。
物事を「経験」しているが故に「面白さ」を捨てて「正しさ」ばかり取ってしまうときがあるのです。
繰り返しになりますが、「正しさ」が常に「面白くない」わけではありません。二者には因果関係がないだけなので、たまたま二者が同じ方向に向いていることだって当然あります。しかしながら、
「これは正しいことなのだけど、面白くないんだよなあ」
というときに、経験があるばっかりに無意識のうちに「正しい」側に寄せてしまう現象が発生するわけです。そのため、経験していることを書く時には、なおのこと「今書こうとしていることは果たして面白いのか」をチェックし続ける必要があるわけです。
知らぬがゆえの「あこがれ」
さて、ようやくダイマができるぞ(笑)。
わたしは一切絵を描きません。
いえ、サイン色紙に絵を描くことはありますよ。でも、本職の方から見れば鼻で笑うような性質のものと思います。わたしも恥を忍んで書いてます。
そして、わたしは絵師小説をよく書きますし、9月最新作の『絵ことば又兵衛』でも、絵師を主人公に小説を書いています。
もちろん、色々調べ物をして、できる限りその人の見た景色に近づこうとします。けれど、それでも届かない領域がある。もしもわたしが絵描きだったなら見える景色があるかもしれない、そんなことを思わぬではありません。
でも、一小説家として、知らぬからこそ見える、豊穣な世界がある気がしているのです。
短い時間で均整の取れた、今にも絵から抜け出してきそうな動物を紙の上に描き出す絵描きさんは、どんな領域に身を置いておられるのだろうか。もし自分がそんな域に達したらどうなるのだろう? そこからどんな景色が見えるのだろう?
小説を豊かにするのは、案外こうした「あこがれ」なんじゃないかと思うのです。
もしも当事者の書いた小説が至高なら、校正者が校正小説を書けばいいわけですし、高校生が青春小説を書けばいいわけですし、音楽家が音楽小説を書けばいいわけですし、画家が絵師小説を書けばいいのです。そもそも、フィクションである必要性がどこにもなくなります。
けれど、作家の手には小説の技術があり、自らの目では到達できないところを観ることのできる「あこがれ」を持っている。そして、もしかしたら間違いかもしれない「あこがれ」に己の好きを乗せて小説を紡ぎ出す。きっと、わたしがやっているのはそうしたことなのです。
経験の外側にあるからこそ書ける世界をいかに豊穣なものとするかが、小説家の戦いの一つなのかもしれません。
というわけで、わたしのあこがれが詰まった9月刊『絵ことば又兵衛』よろしくお願いしますなんだぜ。
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