廉太郎ノオト書影おびあり

『廉太郎ノオト』(中央公論新社)のさらなるノオト②――日本西洋音楽における第一世代の女性音楽家

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 『廉太郎ノオト』はあくまで小説なので、かなり史実から割愛している部分があります。たとえば、廉太郎さんの本科生時代の同級生は石野やチカのほかにも四人ほどいますが、お話の混乱を恐れて削っています。また、教員たちの群像についても混乱をきたさないよう、かなり説明を省いています。また、東京音楽学校に集う人々に関しても、本筋に関係ないと判断した事柄はどんどん後背におしやっています(例を出すなら、『花』の作詞を務めた武島羽衣さんは当時東京音楽学校の教授陣に名を連ねていますが、あくまで名前だけの紹介に留めています)。

 というわけで、今日はお話の都合上紹介できなかったある女性音楽家のお話です。

 その女性の名は、瓜生繁子(1862-1928)。
 もとは幕府の軍医永井家の養女ですが、明治に入り、岩倉使節団の第一回女性留学生としてアメリカに渡ります。この時期の歴史に詳しい方だとピンとくるかもしれません。そう、一緒にアメリカに渡った留学生に、山川捨松(のちの大山巌夫人)や津田梅子(教育者)がいます。
 繁子はアメリカのヴァッサー大学音楽学校でピアノを学びます。大学生活中に後の海軍大将でもあり夫にもなる瓜生外吉ともアメリカで出会います。
 そうして日本に戻った繁子は、海軍軍人である夫を支え、日本の女子教育のために力を尽くします。

 と、こんな華やかな経歴の女性なのですが、実はこの方、帰国してから1902年まで、東京音楽学校で教鞭を執っています。しかも、繁子の専門はピアノなので、間違いなく廉太郎さんは手ほどきを受けているはずですし、幸田延さんは繁子さんからピアノを学んでいます。

 実際問題、瓜生繁子さんの存在が、東京音楽学校の方向性を決めた面があるんじゃないかというのがわたしの感想です。
 東京音楽学校は相当女性を輩出しています。本編でもある程度書きましたが、音楽教育のための人材を育てる面もあった音楽学校において、女学校向けの人材、つまり女性教員が求められていたという面もあります。しかし、幸田姉妹や三浦環など、教育者だけに留まらない活躍をする女性たちを生み出した下地を作ったのは、瓜生繁子さんのご活躍があったからこそと言えるのではないでしょうか。

 えっ? どうして本編に繁子さんを出さなかったのか、ですって?
 実を言うと、幸田延さんと廉太郎さんの関係についてはある程度口碑が残っているのですが、繁子さんとの間の逸話が見つけられなかったという経緯があります。それ以上に、「ライバル(幸田幸)の姉であり主人公(廉太郎)の師匠である、さらに兄(幸田露伴)が有名人」という延さんのあまりにも濃い味付けの立ち位置が、彼女の登場を許してくれませんでした。間違いなく廉太郎さんの先生の一人なのですが、お話の中ではうまく登場させることができず、泣く泣く「教授陣の一人」に押しやってしまったという経緯のある人物なのです。

 いずれにしましても、廉太郎さんや延さんが活躍する前史として、伊沢修二さんや瓜生繁子さんといった黎明期を支える人々がいたことだけ、覚えておいていただけると幸いなことです。

 あと、お知らせです。
 八重洲ブックセンター八重洲本店さん(東京都・東京駅前)でサイン本を書かせていただきました。

 『廉太郎ノオト』は今のところ八重洲ブックセンター八重洲本店さんでしかサインを書いていないので、もしわたしのサイン本を欲しいという方がおられましたらぜひぜひ。
 ちなみにわたしは『廉太郎ノオト』(中央公論新社)、『三人孫市』(中公文庫)、『某には策があり申す 島左近の野望』(ハルキ文庫)にサインをいたしましたよ。

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