「桔梗の人」を行く⑤ 安土城編

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 はい、今月も『桔梗の人』更新記念の『「桔梗の人」をゆく』です。ちなみに、来月は多分この掲載はありません。なんで? って? 実は、この前の取材の際、かなり写真を取り損ねていて、全八回分も写真が確保できていないのです(死)。

 それはさておき、今回は『桔梗の人』でも相当存在感を誇っている織田信長の居城・安土城です。有名なお城なので、お邪魔したことのある人、かなりいらっしゃるのではないでしょうか。というわけではいどん。

 と、こんな感じで石垣やら石段がかなり整備されて残っており、さらに案内板なども整備されています。山城としては比較的攻めやすい城なのではないでしょうか。
 とはいえ、「攻めやすい」からといって「登りやすい」わけではありません。虚弱体質のワタクシめは、ひいひい悲鳴を上げ、汗だくになりながらなんとか頂上まで登った次第でして……。
 それにしても、このお城、相当やらしいですねえ。
 歴史好きの方には常識に類する話かもしれませんが、安土城には大手道というまっすぐな石段の道があり、この左右に織田信長の家臣たちの屋敷が軒を連ねていたといわれています。イメージとして、信長により近い立場、身分の高い家臣たちが頂上に近い場所に屋敷を与えられたらしく、この大手道のふもとには羽柴秀吉と前田利家の屋敷が並んでいたといわれています。
 つまるところ、織田家組織のヒエラルキーが一瞬で丸見えなわけです。ちょっと面白かったのは、後継ぎで最晩年期には家督を譲っている織田信忠よりも、弟の子である津田信澄の屋敷の方がより天守に近いんですよ。一説には信長の秘書官的なポジションで活躍してかわいがられたとされる津田信澄の立場が偲ばれますね。
 そして、美術史スキーとしてはこの城には特段の思いがあります。かの狩野永徳が筆を振るい、様々な絵を本丸や天守に描いたとされているのです。しかしながら、それもこれも、本能寺の変をめぐるドタバタの中、不可解な形で焼失の憂き目に遭うのです。
 もしも現代にまで伝わっていたら国宝であろう絵が……。

 とまあ、あれやこれやといった感慨を抱きながら登ったものの、結局は四百年以上にわたる時の浸食によりもはや石垣や石段にしか往時をしのばせるものがないこの城を眺めていると、諸行無常の響きを感じざるを得ませんねえ……。

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