見出し画像

『おもちゃ絵芳藤』(文春文庫)の主人公・歌川芳藤について

【PR】

 今日は、文庫新刊『おもちゃ絵芳藤』の話題を。
 この前の更新でおもちゃ絵なるものがどういうものか、ご理解いただけたんじゃないかと思います。では、本作の主人公である歌川芳藤とは何者なのか。今日はその話です。

歌川芳藤さんの大まかな年譜

 1828(文政11)年生まれ。姓は西村、名は藤太郎。
 いつからか浮世絵師、歌川国芳の門に入り、国芳の画姓である「歌川」と、「芳藤」「よし藤」の名を遣うようになる。一説には、同時期に活動している「藤芳」と同一人物とも。
 活動期間は幕末から明治十年代後半まで。
 いわゆるおもちゃ絵の仕事で知られるほか、開花絵や戯画、子供向けの教育冊子などでも筆をふるう。
 最初は本郷在住。後に浅草に移る。
 1887(明治20)年、死去。享年60。

どんな絵師だったのか

 作中において芳藤はずっと非才ぶりを嘆いていますが、なかなかどうして、芳藤という人はかなりの売れっ子絵師です。絵師番付という人気番付を見ると、明治十年くらいまで、芳藤は第一線の人気絵師として活動していた様子が覗えます。作中の芳藤がああも嘆くのは、きっと師匠や周りにいる弟子たちがあまりに眩しかったからなのでしょう(番付を眺めていると、最初は弟弟子たちより上位にいたのにやがて追い抜かされ最終的にフェードアウトしていく状況が見て取れます)。
 「自分のことをどういう風に評価するか」というのは、往々にして相対評価であったりするのです。ことに人気稼業でのこと、作中の芳藤が抱える心の闇は、ある意味で自分の心の声だったのかも知れません。
 史実における歌川芳藤は、まさに生涯絵師といえる人生でした。デビューからずっと安定的に絵に取り組み、脇目も振らずに筆を執り続けているように感じます。また、江戸から東京へと町が変わりゆく中、古き良きものと新しいものを融合させるような画題も好んで描いています。
 そして恐らく、芳藤のワークスはわたしたちが知りうる以上に幅広かったことが想像されます。
 どういうことか。
 この時代、技術上の事情で出版物に写真を使うことは絶望的でした。そのため、ちょっとした挿絵などから絵師の出番があったのです。また、今ならCGなどで作ることのできる図案の作成なども絵師の仕事で、千代紙の図案なども絵師が担っていたようです。おそらく芳藤はそれらの仕事も旺盛に応えていたであろうことが想像されますが、そうした仕事は往々にして無記名です。

芳藤とわたしの共通点

 実はあんまりありません(笑)
 共通点という意味では、『絵ことば又兵衛』の主人公である岩佐又兵衛の方がたくさんあります(というより、『絵ことば~』では意図して自分とオーバーラップさせた面があります)。
 ただひとつ、芳藤との重大な共通点といえるのがこれです。
 人気稼業に身を置いていること。
 小説家の世界は苛烈な数寄の場に身を置いた年数を言祝がれる場であるのと等しく、評価され、売れることが尊ばれる場所です。デビューからいきなり人気をかっさらった作家、デビューそこそこで作品が評価された新進作家たちと比較され、あるいは追い抜かされていく。小説家が身を置くのは、運と実力、身の置き場のうまさなどなど、様々な要素が絡み合う奇々怪々の人気稼業の場なのです。
 芳藤のぼやきは、もちろんあくまで小説の登場人物の台詞に他なりませんが、もしかしたら、言葉の端々にわたしの本音が漏れているのかもしれません。
 つまるところ、

 というわたしのつぶやきを深掘りしたのが『おもちゃ絵芳藤』というテキストなのかもしれません。

 というわけで、『おもちゃ絵芳藤』

 よろしくなんだぜ。『絵ことば又兵衛』

 も是非是非ご一緒に。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?