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『おもちゃ絵芳藤』(文春文庫)に出てくる絵師・落合幾次郞(芳幾)について

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 今日は『おもちゃ絵芳藤』の影の主役と言っても過言ではない、落合幾次郞(芳幾)の話です。ここだけの話ですが、『おもちゃ絵芳藤』の中において、わたしが一番好き(というか感情移入と共に描いた)なのがこの人物であったりします。

落合芳幾という人

 まずは史実ベースの話をしましょう。
 歌川国芳の弟子に入ったことは既にお察しのことと思いますが、本作の登場人物の順番としては芳藤の次くらいに入門しています。結構な古株に聞こえるかも知れませんが、芳藤との間に何人も弟子がいるので、かなり歳の離れた兄弟子・弟弟子でした。
 そんな彼のデビュー戦は、安政の大地震でした。江戸で起こった大災害の傍ら、吉原の惨状を克明に描いた錦絵で名が知られるようになります。かなり器用な人であったのか、様々なジャンルの絵をものしており、江戸末期には弟弟子の月岡芳年と無惨絵の競作をやっています。
 明治になってからもその画名は衰えることを知りませんでしたが、特筆すべきは新聞事業への参画でしょう。なじみの戯作者・条野採菊とともに東京日日新聞を興した人物となります。実際にこの新聞は今でいう同人誌に近いような性質のものであったようですが、いずれにしても、落合芳幾は「絵」という自分の才覚を用い、新聞錦絵というジャンルの草分けとなっていきました。
 その後、歌舞伎関係の人脈を駆使して生活していたようですが、新聞事業から撤退した後にはあまりふるわず、晩年は不遇であったともされています。
 回顧録には温厚であったと書かれているのですが、どうしたわけか国芳の葬儀において芳年を足蹴にしたという正反対の逸話が伝わり、いったいどっちなんだと首を傾げたくなる人物でもあります。

拙作における幾次郞

 まず、なぜ拙作においては「幾次郞」なのか。単行本刊行時、読者の方から「作中であんなことになるからなのでは」とご質問をいただいたのですが……。すみません。ぶっちゃけた話が、作劇上の都合です。
 本作、基本的に国芳の弟子ばかりなので、画号で呼び合うとすると、どうしても「芳○」ばっかりになってしまうのです。メインの登場人物だと、芳藤、芳年、芳艶。国芳だって名前だけ登場します。ここに、「芳幾」を加えてしまうとわけが分からなくなってしまうんではないかと考えたのです。そして、そこから苛烈な「芳」争いが始まります。国芳は当然外せない。主人公である芳藤も駄目、芳年は名前が広く知られているため駄目。だとすると……。そう、芳幾さんに白羽の矢が立ったのです。もうしわけない、芳幾さん……。
 そして、本作の芳幾は、かなり脚色の多い人物です。
 一応伝わっている談話などから窺い知ることのできる「温厚」「芳年を足蹴に(=粗暴)」という正反対の属性をまとめるために、江戸っ子的な気風と面倒見の良さを与え、冷たいようでいて人情味に溢れた人物としました。また、実際には芳年とはかなり仲が悪かったようでもあるのですが、この辺りもトーンを低く描いています。また、新聞事業に対する彼のスタンスなどについても、いくつかの点で脚色があります。
 本作における芳幾は、作品を貫くあるテーマを浮かび上がらせるために、かなりフィクションの味付けが濃いのです。

明治23年の怪

 これは本作の話ではないので、別に立項します。
 明治23年、落合芳幾は息子との二世帯住宅(レンガ造りのかなり瀟洒なものであったようです)に引っ越しています。また、それまで、新聞錦絵や歌舞伎専門新聞の仕事ばかりしていたにもかかわらず、この年の五月、久々に三枚絵の役者絵を描いています。
 そこで、彼は、あまり作例の見られない号を用いています。
 蕙阿弥(けいあみ)と。
 画号は結構その都度変えるもので、長期に亘り一つの号を用いている芳藤などはある意味で例外みたいなものです。
 と、なぜか明治23年、芳幾が騒がしいのです。
 これをわたしは明治23年の怪と呼んでいるのですが、その時の幾次郞を描いたのが、『奇説無惨絵条々』という短編集となっています。よろしくなんだぜ。


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