桔梗の旗書影

小説の「心技体」ってなんだ 3 &書評掲載されました。

【PR】

 前回の続きなのですが、その前にお知らせです。

 週刊新潮2.27号に、拙作『桔梗の旗 明智光秀と光慶』(潮出版社)の書評が掲載されました。

 評者は文芸評論家の縄田一男先生です。いつもご紹介誠にありがとうございます。全文を載せるわけにはもちろんいきませんので、ご興味のある方はぜひとも週刊新潮をお手に取っていただけましたら幸いです。けれど、毎度のことながら、非常にありがたいお言葉を頂戴いたしております……。

 さて、前回の続きです。
 小説を書く際の「心技体」の話で、「心」に当たるアイデア、「技」に当たる技術はインプットによって底上げ可能だよ、という話でした。
 そして今回は「体」に当たる「フィジカル」なのですが……。
 実はこれ、既に前回までの図に描かれています。

 第一回目において、わたしはこう書いてます。

モチベーションが無限にあると仮定した場合において、アウトプットと技術はほぼ比例の関係にあるんじゃないか

 実は、ここでいうモチベーションは「フィジカル」の一部です。
 すなわち、「フィジカル」はあの図に組み込まれているのです。

 肉体の健康、そして精神の平衡は、小説家のパフォーマンスに影響を与えます。打鍵できないレベルで不健康では一行たりとも小説は書けませんし、とてつもない憂鬱に襲われている状態ではお話を考えることもおぼつかなくなってゆきます。つまり、心身の健康を保ち、モチベーションが一定のレベルにある状態で初めて前回、前々回の図になっていくわけです。

 ただ、ちょっとおもしろいのが「モチベーション」です。
 モチベーションを一定のレベルに保つことで模式図のようなことになると説明しましたが、様々な事情により、モチベーションが高まることがあります。プロの場合だと、編集者氏との相性がいいとか、鼻先にニンジンがぶら下げられているとかあれやこれや。そうした場合、何とあのグラフをぶっ飛ばすような火事場の馬鹿力が出ることがあります。
 そうした時にはアイデアは湯水のように溢れ、どんなに書いていても疲れることなく、淡々と面白いものが書けています。
 なのですが、これはある種の「確変」であり、わたしは「魔」であると考えています。
 「確変」に入っちゃったときは自分でも制御できません。それはすなわち、再現性が低いことを意味します。それならまだいいのですが、かつて自分はこれだけのものを書けたのだという成功体験が小説家を苛むことになり、大きな目で見ると、この「確変」も考え物かもしれません。「確変」に入った後、小説家がやらなくちゃならないのは、そのテキストの分析かなあと思っておりますがそれはさておき。

 小説の「心技体」における「体」は、「心技」を支える縁の下の力持ち(であり、時々とんでもない働きをすることがある)ということでご理解ください。

 というわけで、もうちょっとだけ続くんじゃ。
 続きは次回。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?