それさく文庫書影

国立科学博物館に展示されているミイラと死者の尊厳、そして歴史小説

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 今日はライナーノーツはお休みです。
 というのも、今、書き留めておきたいことがあったからです。

 先日、リフレッシュ(と九月刊行予定の「廉太郎ノオト(仮)」の最後のロケハン)と称して東京上野に行きました。ただ散策するだけではつまらないですし、かといって博物館・美術館の企画展に惹かれるものがなかった(すみません!)ので、いっそのこと……と国立科学博物館の常設展に入りました。
 そういえば、国立科学博の常設展に入るのなんて十数年ぶりです。今、どうなっているんだろうと思いつつ入ってみると、すっかり様変わりしていました。以前は日本の動物のはく製がばばーんと一挙に並んでいた区画があったという記憶がありましたが、今ではテーマごとに整理された状態で並んでいましたし、かつてはいろんな動物のはく製に埋もれるようにして佇んでいた忠犬ハチ公のはく製も間近で見られるようになってました。

 そんな中、わたしの目に留まったのは、谷中三崎町遺跡で発見された、江戸期女性のミイラ(発見時死蝋化遺体、のちミイラ化)の展示でした。
 詳しく描写はしませんが、大変残存状況がよく、「眠っているような」という表現がしっくりくる、そんなご遺体でした。
 国立科学博物館は写真撮影をしてもいい展示物が多いという変わった博物館なのですが、そのミイラの展示に関しては撮影禁止となっていました。その理由を述べるパネルが置いてあったのですが、非常に頷くところが多かったのです。
 ぜひ内容は直に御足を運んでいただいてご覧いただきたいのですが、ここで書かないわけにもいかないので大意だけ説明させていただくと、
「確かにこのミイラは研究資料として広く知られるべきものだが、生前の面影を強く残した二百年前のご遺体の尊厳を傷つけるわけにはいかない。博物館としても公開の是非の議論はあったが、学術的価値の高さに鑑み公開に踏み切った。しかし、写真撮影などはご遠慮願いたい」
 といったものになります。
 このご遺体は200年くらい前のものとされています。1世代25年と考えると、わたしたちから見て6~8世代くらい前の人です。これを近いと見るか遠いと見るかは人それぞれでしょうが、曲がりなりにも歴史を学んだ人間からすると「近い」と感じました。

 死者の尊厳――。
 実はこれは学問の世界だけの話ではありません。歴史小説を書いている人間にとっても重大な問題としてのしかかってきます。
 歴史小説は歴史上の人物の行動や逸話からその心の内を忖度したり、歴史的事象を物語の文法に落とし込んでやることによって成立するものです。歴史的事実を歴史小説に変換する際、何らかの「歪み」は発生します(「注意深く小説を書けば歪みなど起こりえない」と強弁する向きがあるかもしれませんが、それは、「書く」という行為のなんたるかを知らぬ世迷言でありましょう)。
 もちろん、「歪みを最小限に抑えて書く」のも答えの一つでしょう。されど、それはある種の歴史書になってしまい物語からは離れていってしまう。ただ、かといって物語の側に振ってしまうと、「歪み」が生じる。

 こういうことを書くと、「どちらかに肝を据えろよ」とお叱りを食らうことがあるのですが、わたしはその立場に与しません。
 そもそも、何でもかんでも0か100かで割り切れることなどありはしません。むしろこの世の中、白黒はっきりしないもので満ち満ちています。

 相容れぬ大事なものを天秤にかけ続け、常に悩み続ける。
 きっと小説家とはそういう生き物なのだろうなあ、と思った次第なのです。

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