桔梗の旗書影

『桔梗の旗』を作った際に考えたこと③

【PR】

 光秀の妻の実家である妻木氏を出そうと決めたきっかけはもう一つあります。
 『明智軍記』という書物があります。
 成立は光秀死後百年くらい。いわゆる軍記です。歴史学の研究者からすれば「かなり眉に唾をつけなければならない」史料となっておりますが、とはいえ、光秀周りの記事の中ではここにしか記載が存在しなかったり、そもそも光秀自身の年譜が立証できないことから、今でもたまに参照されている書物です。光秀周りの史実を調べた後、なんか面白いことがあったかなあと思い読んでいたところ、光慶関係のくだりでこんなものがありました。

 明智光慶付きの家臣であった妻木七郎兵衛と内藤三郎右衛門が、光慶の墓を建てた後、その墓守となった。

 繰り返しになりますが、光慶には信頼なる史料が残っておらず、彼の年譜を作ろうとするとどうしても虫食いだらけになってしまいます。凄く嫌な言い方をすると、光慶は父・明智光秀の存在によってかろうじて歴史に名前を残しているとさえいえます。だからこそ、光秀死後百年を経て編まれた軍記ものに依拠せざるを得ない場面もあるわけです。とはいえ、わたしが書くのは研究書ではなく小説です。著者が危うさを理解している限りにおいて(あるいは理解していなかったとしても)面白さのために確度の低い史料を用いるのはOKというのがわたしの立場です。むしろ、真偽定かならざる軍記ものにすら、光慶の周りに妻木氏の影があるのは面白いと感じたのです。
 いろいろ考えてみると、光慶の周りに妻木氏関係者がいるのは不自然でも何でもありません。光慶が明智家を相続すれば当然妻木家は真の意味で明智氏の血族となり、有力な後ろ盾となることは明白だからです。光慶の一の家臣となるであろう若者を小姓として育てようという明智家の思惑がそこに透けて見える気がしたのです。

 実を言うと、妻木七郎兵衛(ついでに内藤三郎右衛門)は『明智軍記』にすらほとんど記載がない人物です。人物像に関しても特に逸話が残っているでもない二人で、旧主の墓守となったという逸話を足掛かりに、二人の性格を形作っていきました。

 ほぼ同時期に近代もの(『廉太郎ノオト』)を書いていたのですが、戦国時代の小説は、やっぱり近代小説とはアプローチが変わってくるなあ……と気付かされた次第です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?