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『絵ことば又兵衛』(文藝春秋)に登場する二つの「豊国祭礼図屏風」について

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 前回は「洛中洛外図屏風(舟木本)」についてさらりと説明しましたが、今回はやはり『絵ことば又兵衛』に登場する全く同じ画題の二つの屏風をご紹介しようと思います。
 『豊国祭礼図屏風』です。

 豊国祭礼図屏風とは

 豊臣秀吉はその死後、いろいろあって豊国之大明神という明神号を与えられ、彼の遺体を安置したお社が格上げされる形で豊国神社が成立します。方広寺とセットになっていた神社で、京の阿弥陀ヶ峰あたりに神社がありました。
 神社なので当然お祭りがあります。そして、この時期の豊国神社のお祭りはとんでもない規模だったようで、お祭りにかこつけて集まった人々が今でいう仮装行列を行なったり、自然発生的に皆で舞を舞ったりという、現代の渋谷のハロウィンみたいになっていました。特に大きかったのが秀吉七回忌に当たる年の臨時大祭礼であったとされます。
 その様子を描いたとされるのが、豊国祭礼図屏風です。

二つの豊国祭礼図屏風

 豊国祭礼図屏風は、有名なものが二つあります。
 豊国神社蔵のもの、徳川黎明会蔵のものです。
 豊国神社蔵のものは岩佐又兵衛の師匠の一人とも目される狩野内膳が描き、徳川黎明会蔵のものは一説に岩佐又兵衛の描いたとされています。一般に前者を豊国神社本、後者を徳川本などと区別します。

 豊国神社本

 徳川本

 リンク先である程度雰囲気を見て取れると思いますが、どちらも金碧の豪華な屏風で、構図などもよく似ています。繰り返しになりますが、徳川本の画家が又兵衛であるという直接的な証拠はありませんが、一応岩佐又兵衛のものという風に理解されています。
 徳川本と比べると、豊国神社本は来歴がしっかりしています。秀吉七回忌の臨時大祭礼の際、豊臣家臣である片桐且元が狩野内膳に命じて制作し、豊国神社に納めたとされているのです。

 皆さんもご存じの通り、豊臣家は滅亡します。
 もし豊臣家が何らかの形で残存していれば違った展開もあったことでしょうが、豊臣家が滅亡したことにより、豊国神社は放置され、朽ちるに任せる形になったものが近代に入り復権した経緯を辿っています。つまるところ、豊国神社はその成立の経緯から、政治的に触れづらい、というか、難しい画題であったということです。
 豊臣氏が権勢を誇っていた頃にこの仕事を請ければある意味で権勢へのおもねりとなり、豊臣が滅んでから仕事を請ければ逆に新たな時代への反発となる。
 豊国祭礼図は、時代の変化に翻弄された、あだ花のような画題と言えます。だからこそ、小説のモチーフにするにはもってこいなのではないでしょうか。

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