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『新歴史・時代小説家になろう』第31回歴史的イメージとの付き合い方

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 皆さんは「不気味の谷」って言葉、ご存じですか?
 これは3DCGなどで取り沙汰されるもので、そのデザインが粗であるうちは人物として問題なく認識でき、かつ楽しく受容することができるのに、その描写が密になっていくに従い、どんどん違和感が出てきて、その違和感が度しがたいものになる現象を指します。
 でも、実はこれ、小説にも起こっているんじゃないかというのが今回の話です。

「信長」と認識するものとは何なのか

 少し前、Twitterでわたしがこんなことを書きました。

わたしたちは何を以て「織田信長」を認識するのだろう?

 わたしたちは2021年を生きる人間であり、当然1500年代に生きている織田信長に会ったことはありません。にも拘わらず、作品を読んで「これはいい信長」、「この信長はイメージと違う」、「あの信長は新しい」などと論じ合ったり、ファン同士で楽しんだりしている。
 思うに、歴史上の人物のイメージは概ねこのような図で成り立っているものと思われます。

表層:個々人のイメージ
   ↑(影響を与える)
中層:物語、史学の成果などから描かれたイメージ
   ↑(影響を与える)
低層:歴史上生きた人物の事績

 つまり、皆さんが個々人で考える「信長ってこんな人」というイメージは、過去にその人が遺した痕跡や、その痕跡を元に作られた創作物や研究によって形作られているということです。
 こうして考えると、実はわたしたちの歴史上人物理解に深い影響を与えているのは中層部分であることが理解できるのではないかと思います。
 低層部分、すなわち、その人物の生の事績に触れることができる人はガチの研究者や一握りの史学者、ないし史学の訓練を受けた人々だけで、マジョリティは中層あたりから知識を得て、イメージを形作っているといえるでしょう。
 思うに、歴史上の人物を認識させるものは、この中層部分で支配的に流通しているイメージなのではないでしょうか。
 たとえば織田信長でいえば、「であるか」口調とか。
 そういった、「それっぽさ」によって小説上に現われる織田信長は、歴史上の人物織田信長と接続されるのではあるまいか、ということです。

記号を積み重ねていくと人物像に血が通わなくなる

 「それっぽさ」を用いることによって、猫であっても織田信長っぽさを獲得できることになりますし、描かれているものが女の子でも信長っぽさを背負っていればそれを信長と認識することが可能になります。
 すなわち、その人物らしさが記号化しているわけですが、記号化には、ちょっとした面倒な性質があります。
 記号を盛れば盛るほど、人物像が平板になってゆくのです。
 信長っぽさを遵守するあまり、いかにも信長っぽい姿、信長っぽい言動、信長っぽい振る舞いを取らせすぎてしまうと、心の通わない、ロボットのような存在になってしまうのです。
 記号化は類型化にも繋がります。記号化したイメージを多用すると、人物像がどんどん類型化に近づいていくのです。
 ああ、これについても「何が悪いの?」という声が聞こえてきそうです。まあ、これに関しても、「疑問がないのでしたらどうかそのままで」という話なので、もしそう思われた方はブラウザバックしてくださいな。

記号化に立ち向かうために

 この現象、有名な人物だけではなく、ある程度世に知られた人物でも発生する現象です。また、歴史上の人物を描写する場合、史実(低層)や逸話(中層)のイメージを借りて人物を形作るので、どうしても記号化の波にさらされてしまいます。
 では、どうやって記号化から逃れてゆけばいいのか。
 そこは、「与えられているイメージと人物像を擦り合わせる、なじませる」ことだと思います。
 たとえば、織田信長の「であるか」口調。これを彼の記号として利用する場合、まさか子供の頃からこの口調だったわけはなく、どこかで彼はこの口調を獲得したはずです。そのときの心の動きや、この言葉を用いている彼の心の内を想像してやるのです。そうすることによって、ある作家は信長の孤独を見出すかもしれません。別の作家は信長の合理性を見出すかもしれません。またある作家は信長の部下への信頼を見出すかもしれません。とにかく、その人物の記号をあなたなりに「解釈」してやるのです。
 そうすることで、あなたの解釈した信長が、記号を着こなした一人の劇中人物として振る舞うようになるはずです。

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