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「枯れ」と「不安定」と

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 小説執筆は頭脳を用いる行為とされがちですが、案外身体的な行ないです。というより、「頭脳を用いる」行為そのものが身体的だといえる、ということなのかもしれません。
 そのため、書けば書くだけ、小説執筆に「慣れ」ていく感じがします。なのだけど、この「慣れ」というのが恐ろしくて、確かに「慣れ」れば安定して書き続けることができるのですが、技術的なレベルがそこに居着いてしまう、それどころか徐々に下がっていくみたいな現象に襲われます。
 一般に言う、「手が枯れる」とはこのことだと思っています。
 いや、「手が枯れる」ことは決して悪いことじゃないんですよ。悩まず手が動くので、それだけ見通しがよくなって、結果的に大きな構えの仕事になったりしますから。
 しかしながら、あくまで「手が枯れる」のは「習熟」ではなく「慣れ」である点に注意が必要でしょう。
 絶対評価としては「高いレベルで安定している」ように見えても、相対評価的には裾野をうろうろしているだけだったなんてこともよくある話で。

 山に喩えるなら、「手が枯れている」とは、山の休憩所に至った瞬間みたいなものなんですよ。
 見晴らしもいいし、結構達成感もある。まあまあいい景色ですし、そこからヤッホーと声を上げたくもなる。でもそこは、あくまで休憩所であって、頂上では決してない。

 今、わたしは何度目かの「手が枯れた」ところに至ろうとしています。
 今回はかなり長い道行きでした。2016年頃から取り組んでいたので、かれこれ五年あまり、森の中をさまよい歩いていたことになります。
 なのだけど、「手が枯れた」瞬間が来たとき、まず自分の来し方を疑い、今後の計画を立ててゆかねばなー、などと考えているところです。
 単純に、ちょっと楽しみです。
 「枯れ」から脱するとは、不安定になることの裏返しです。
 2016年当時のわたしはまだ4年目、色々不安でしたが、9年目のわたしはむしろその不安定を楽しめるだけの余裕が生まれた気がしています。

 さあ、心して「枯れ」を迎えよう。

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