廉太郎ノオト書影おびあり

スピッツを聴きながら

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 ここのところ、スピッツのニューアルバム『見っけ』をずっと聴き続けている日々です。

 「空も飛べるはず」に打ちのめされ、くしくも草野正宗氏が「この曲をきっかけに小学生たちが僕らの音楽の沼へ沈んでくれればいい(意訳)」と述べた通りに過去アルバムを買いあさり、結局頭のてっぺんまでスピッツに漬かりに漬かりきって今ここに立っている戯作者がわたしです。今のわたしは「『あわ』と『シャボンの歌』のどっちが好みか」みたいな話題でキャイキャイできる程度のファンです(セカンドアルバム『名前をつけてやる』に収録されているジャジーな曲「あわ」にはパイロット版のパワーポップ曲「シャボンの歌」が存在するのです)。

 スピッツの魅力って何だろうと色々考えているのですが、もはや自分と密接不可分になっている部分もあって判然としません。
 あえてたとえるなら『実家』感でしょうか。
 わたしもそれなりに音楽を聴いています。その中で「ああ、このバンドは追いかけてもいいなあ」とか、「いい曲だなあ」とジーンとくることも多いのですが、わたしからすれば、それらの音楽は『お出かけ』感というか、『よそに来ている』感じがあるのです。でも、スピッツはそうではなく、久々に実家の戸を開いて声を掛けた時のような安堵と、仄かな懐かしさが鼻の奥を突き抜けていく。そんな感じです。だから、スピッツを聴くときのわたしは、ほっとしているのと同時に、なんとなく気恥ずかしさもあったりします。

 それにしても、物書きになってから心から思うことですが、自分の未来を指し示してくれるクリエイターが同じ時代にいるというのは、本当に幸せなことです。
 わたしのクリエイター成分の結構な分量は、スピッツから得ています。スピッツがデビュー以来ずっと書いている、『想像力豊かな草食系男子の性欲』みたいな部分の発露のさせ方は、わたしの小説の底流にも流れている気がしてなりません。それに、大袈裟な話ではなく、マチズモな男子ではない、オルタナティブな男子像をバブル期の終わりから提示し続けているスピッツは現代男子の一類型すら予言していたのかもしれません。

 正直な話をすると、わたしは非常に生きづらさを感じている人間です。

 初対面の人と気の利いた話なんかできるか!
 気の遣い方なんて知らないよ!
 他人の気持ちを言葉と仕草で読み取るなんて無理ゲーだろ!
 なんで他人の意見に従って自分のやりたいことを我慢せにゃならんのだ!

 わたしの33年は概ねこんな感じのものです。だからこそ、そうしたものの中で生きている娑婆の皆様はすごいなあと思うのですが閑話休題。
 スピッツと出会うまで、わたしは自分の生きづらさは己だけのものだと思っていました。でも、スピッツを聴いた時、自分だけじゃないんだ、という発見を得たのです。

 わたしが今、物書きをやっているのは、ざっとこうした理由です。
 スピッツの話をするとつい自分と向き合うことになってしまう。この辺りが『実家』を連想する理由なのかもしれませんね。

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