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『新歴史・時代小説家になろう』第23回コメディと歴史・時代小説

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 歴史小説にしても時代小説にしても、「過去を材に取っている」ジャンルなので、ミステリやホラー、SFやサスペンスといった他ジャンルのエッセンスを投入しやすいジャンルであるといえます。ところが、歴史・時代小説作品、特に歴史小説においては、混ぜ合わせると相性が悪いんじゃないかというジャンルがあります。今日はその話です。

鬼門「コメディ」

 ことに歴史小説において、コメディはかなり難しいジャンルなのではないかと思っています。
 なぜか。
 以下のような理由からです。

その1「そもそも、コメディの概念が現代的なものだから」

 歴史小説にしても時代小説にしても、当時のそれっぽさを担保した上で展開される小説です。江戸の小説ならば江戸時代っぽさ、卑弥呼の時代なら、弥生時代っぽさを表現し、その上で登場人物を行動させなければならないのです。そうしたとき、コメディというジャンルがどう作用してしまうのか、という話です。
 あまり意識はされませんが、コメディは非常に現代的なものです。言い方を変えると、どちらも形式から内容まで、刻々と内容が変化しています。
 たとえば、漫才という形式、ありますよね。そう、ボケとツッコミの二人組による笑い話の形式ですが、古くは「萬歳」という二人組の古典芸能だったものが、やがて近世~近代に二人組の話芸「漫才」となってゆき、昭和期に「しゃべくり漫才」として人気を博し、今に至っています。何が言いたいのかというと、わたしたちがイメージするボケとツッコミによるしゃべくり漫才は歴史的には極めて新しい形態の「まんざい」であり、江戸期にこの形式が出てくるのは考証上おかしいですし、お話の雰囲気にそぐわなくなってしまう危険があります。
 また、「笑い」は当時の感覚に支配されています。
 皆さんは、江戸期の笑話集を読んだことがおありでしょうか。あるいは、『徒然草』のような随筆集でも結構です。これらのものを読んでいただくと、「あれ? オチは?」とか、「この話、どこが面白いんだ」と首を傾げたくなるものが混じっています。それもそのはず、笑いというのは同時代の事象のパロディであったり、お約束を踏まえていたりするものです。
 もし、歴史・時代小説で笑いを取るのなら、(劇中年間ではなく)現代的な笑いを模索しなければならないわけです。
 でも、現代的であるコメディ要素が「らしさ」を破壊してしまうという二面背立に至るのです。

その2「史実との齟齬」

 特にコメディに顕著ですが、どうしても人物の類型化が進んでしまいます。言い方を変えると、作中や場面での役割を押しつけられがちなんですね。
 コメディは、読者を笑わせるために、ある人物をボケ役にしたり、他の人物をツッコミ役にしたりするわけですが、ここで問題になってくるのは、実在の人物が出てくる歴史小説(場合によると時代小説も)の場合、役割を負わせた人物との歴史的事実との齟齬が取れなくなる恐れがあるのです。
 たとえば、史料上「無口だった」とされている人物が、全員のボケを拾ってツッコみまくる役割を負わされてしまうと、史実の人物との齟齬が生まれてしまいますよね。そういうことです。

その3「イメージとの齟齬」

 実は、その2と似ているようでいて深刻度が違うのがその3です。その2については最悪無視できます。ところが、その3は重大な問題として描き手にのしかかってきます。
 歴史小説の登場人物の中には、既に強固なイメージがもたれてしまっている人物がいます。信長、秀吉、家康の三英傑がその筆頭でしょうか。そうした人々をコメディに用いると、「これはわたしの好きな○○じゃない!」という読者のクレームの元になってしまいます。特に、格好良いイメージで語られている人物ほど、コメディ的な味付けをすると反発がやってきてしまううらみがあります。

コメディは歴史・時代小説作品に使えます

 そんなこと言ってたら、歴史・時代小説作品にコメディを混ぜることができないじゃないか! というお叱りを受けそうです。
 半分は正解です。
 商業の世界においては、シリアスな歴史小説・時代小説が王道とされている観があります。
 でも、それはあくまで今の場が作り上げたイメージの産物で、商業であってもコメディ的な歴史時代小説は上梓され続けています。
 やろうと思えばできるんですね。
 たとえば……。こんなやり方があります。

その1「落語を参考にする」

 皆さんは古典を聞かれますか?
 ああ、お聞きになった方が良いですよ。純粋に楽しいですし。
 落語は江戸時代から続く芸能です。もちろん噺家によって味付けが替えられていたり、解釈が変更されていたりはしますが、江戸庶民も聞いていた落語を参考にしてユーモア性を学ぶのはかなり有効な手段だと思います。
 ちょっと名状しがたいのですが、笑いには「小手先の笑い」と「本質的な笑い」があるんじゃないかと思っています。前者は前頭葉的・理性的な笑いであり、後者は本能的な笑いなんじゃないかと思うのですが、時代の文脈を必要としない「本質的な笑い」を落語から学ぶことで、作品に反映できるという寸法です。
 そして、落語を聴くと、「江戸のそれっぽさ」を知ることができるのでその点でもお勧めです(もちろん、ある程度誇張されている面もあるのですけれども)。

その2「道化役を非実在の人物に宛がう」

 コメディにおける道化役はかなり強い印象を読者にもたらします。それを実在の人物に付与してしまうと色々の問題が出てくるかもとは既にお話ししましたね。だったら、非実在の人物を設定してやって、その人物に道化役を演じて貰えば良いのです。
 実はこれ、歴史小説でも使えるテクニックで、名前だけ後世に伝わっている人物に道化役を与える、なんてこともできます。史実も殆ど残っていませんし、読者側にもイメージがないので、「まあいいか」となるわけです。

その3「コメディ時空であることを冒頭で提示する」

 たとえば、「クレヨンしんちゃん」でいくら荒唐無稽なことが起こっても、誰も怒りませんよね。なぜかというと、「クレヨンしんちゃん」という作品は、全面にコメディ作品であるという但し書きがなされているからです。
 もしコメディ歴史小説・時代小説を書きたいのなら、書き出しに工夫が要ります。
 できることなら最初の千文字くらいのところで、「あっ、この作品、コメディだわ」と気づかせる工夫がほしいのです。この提示の仕方はある意味で簡単で、最初の一頁から全力でコメディをやればいいのです。

それでもハードルが高いコメディ

 しかしながら、それでもハードルが高いのが、歴史・時代小説におけるコメディです。
 もちろん商業でやっておられ、人気を博しておられる方もたくさんおられます。また、時代劇やドラマ、漫画作品でも、歴史コメディはいくらでもあります。しかしながら、それでも、「真面目にやれ」「作中のコメディ要素に鼻白んだ」などのご意見を頂戴することがあります(以上の言葉はわたしが貰った読者さんからのご感想です)。
 特に商業の文芸小説ジャンルに存在するバイアスだと思うのですが、「笑い」に対して冷淡というか「不真面目なもの」であり「唾棄すべきもの」という認識の方が多いなあというのがわたしの肌感覚です。正確には、コメディを敵視する方の声が大きいというか。
 そもそも、笑いって難しいんですよね。万人が理解できる笑いはそもそも面白くありませんし、尖った笑いは取り残される人を残してしまう。あまりに理解できないと、作品や作者への怒りに転嫁される……。
 プロの作家さんも「人を笑わせるのが一番難しい」とおっしゃるくらいですし、そもそもコメディは難しい、ということなのかもしれませんねえ。

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