『新歴史・時代小説家になろう』第24回【私見】小説と学問と「熱」と「冷静」と
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よくTwitterなどで話していることなので、既に聞いたことがあるという方も多いでしょうし、そもそもnoteにも書いたことがある記憶すらある話なので、「またかよ」とお思いの方もいらっしゃることでしょうが、お許しください。わたしが何度も問題にするくらい、大事なことなのです。
今回のお話は、歴史学を修めた方で、かつ創作をしたい方への注意みたいな話です。
「谷津君はさ、薄皮一枚分、主人公のことが好きになれてないよね」
某社の編集者さんの言葉です。
確か、三年くらい前に言われた言葉だったような気がします。その編集者さんと初めてお目に掛かったのが2016年以降と記憶しているので。
こう言われたとき、特に怒りを感じることもなく、せやな、って思ってしまったんですよ。それの何が悪いのか、当時のわたしにはピンときてなかったんです。
今のわたしは割と歴史小説以外の編集者さんとお話しする機会も増え、一般文芸的な考え方を咀嚼できるようになったので、今なら分かるんですよ。その編集者さんの言葉は、「小説家として」の瑕疵をわたしに伝えてくれたのだろう、と。
学問として歴史を学んだ「弱み」
わたしは大学では歴史学を修めました。
とは言いましても、所詮は不良学生、半ば遊びまくっていた四年間でしたが、それでも教授陣の指導は板についていたようで、今でも講義で学んだ史料蒐集や論文の辿り方、それ以前に「歴史学という学問のフレーム」は非常に役に立っています。
歴史学を教わる際、教授陣から徹底して叩き込まれたのは、「研究対象との適切な距離感」です。
わたしは歴史学科卒ですが、正確には考古学専攻卒。時はまさに発掘ねつ造問題が発覚し、考古学の世界が激震に襲われていた直後でした。そのため、より一層、自分の研究対象や遺物に対しての冷静さを持つようにと教えられたのではないかと思っています。
学問の世界においては、「適切な距離感」は重要なものなのだと思います。ですが、小説を書くにおいては、むしろそれが執筆の邪魔をすることがある、そんな気がしています。
創作は何をしているのか
学問における「適切な距離感」は、「冷静に対象を眺めることができる距離感」と言い換えができます。けれど、小説として、ひいては、創作物を作るというスタンスで歴史を眺めたとき、学問に求められる距離感をそのまま援用していいのかといえばかなり怪しいというのがわたしの立場です。
物語を作るに当たって、冷静さなんて必要なのか? という話です。
創作物は基本的に「面白さ」によって存在理由が与えられているものです。もちろん創作物を作る際にもある程度の冷静さが必要なのは言うまでもありませんが、場合によっては何も見えなくなるほどに対象にかぶりつき、入れ込んで描くことが大事な場面もある、というのが、いちクリエイターとしてのわたしの実感です。
創作物は正しさの向こう側にある、あるいは正しさと真っ向対立する「何か」を読者に提示する必要があり、そのアプローチの一つとして、時には「適切な距離感」から大きく踏み出すというやり方があるのです。
これ、思うに、学問を修めた方や、元々冷静でおられる方にとっては、永遠のテーマになり得ることなんだと思います。もちろん、小説の中には「整っていること」「理知的であること」で評価・人気を得ている作品もたくさんあります。けれど、時にはそれを外して大きく飛び立つ勇気を持っておくと、作品の幅が広がるのではなかろうか、そんな気がしています。
まあ、わたし自身、この辺りのことは修行中なので、偉そうなことは言えませんけどねー。
そもそも歴史小説そのものが「冷静」なものである
いや、思うに、そもそも歴史小説というもの自体、そもそも冷静なものなんじゃないかという気がしています。
歴史学の成果を援用し、これまでのイメージを元に新たな人物像、事件像、時代像を構築する歴史小説の執筆は、どうしても理知的というか、パズル的というか、左脳的というか、「冷静」なものになってしまいがちです。なので、気をつけないとそこに熱量も何もない、歴史というプロットに合わせて踊る人形劇が出来上ってしまう危険性があります。
そんな場に、いかに創作物としての熱を与えるか――。
歴史小説の難しさの一つが、ここにある気がしています。
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