信長様はもういない書影

多読が称揚される恐怖

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 わたしは割と多読……だと思います。
 「だと思う」と書いているのは、実際作家さんの中にはわたしより本をたくさん読んでおられる方もいらっしゃるからですし、広い世間を見渡せば、もっとたくさん本を読んでおられる方がいらっしゃるだろうことが想像できるからです。それにわたしは生来的な多読というより(確か作家になろうと志す前は漫画も含めて年間300冊くらいであったはず)必要に駆られて多読になったという事情の持ち主です。
 えっ? 事情? たくさん読まなくちゃ同年代の小説家たちに伍してゆくだけの武器も体力もなかったんだよ言わせんな。
 というわけで、ぶっちゃけ小説家であるという事情ゆえに多読となったわたしこと谷津ですが、それであるだけに、多読って本当に危険なことだなあと思うことしきりです。

 たくさん本を読むということは、一冊一冊に掛ける時間が少なくなることを意味します。もちろんそれ自体は「合理的」に見えますが、一方で、「一冊一冊を深く読み込む」ことに対してなおざりになってしまいがちです。また、数を読むことに囚われて、難しそうな本や分厚い本などを敬遠してしまうなんてことも出てくるかもしれません。そうしたことは非常にもったいないと思うのです。
 かく言うわたしもたくさん本を読むことの怖さを知ってはいるつもりなので、読書記録をつけたり感想をつけたり(これはオフライン)、Twitterで感想を上げたりして読み込むための材料としたり、数に拘らず、とにかく分厚い本から何から端から端まで読むということをしています。

 なぜわたしがそんなことを書いているのかというと、ウェブ空間での読書クラスタの中で、数を読むことを称揚するバイアスみたいなものが働いているんじゃないかなと疑っているからです。
 もちろん、そうした人たちの多くは本をたくさん手に取ってくださるお客さんなので我々としては大変ありがたいのですが……。一方で心配にもなります。
 もしかして、多読が称揚されがちなウェブ空間で、肩身の狭い思いをしておられる方がいるんじゃないかと。そして、多読であることを隠さないわたしは、そうした方に変なプレッシャーを与えてしまっているのではないかと。

 いや、多読・遅読について本当に気にしないでください。
 多読家であろうがそうでなかろうが、本読みは本読みなのです。本を愛し、手に取ってくださる皆さんは同じ趣味の世界にいる仲間です。
 自分のペースで本を楽しむ。それでいいはずなのに、そうはならないこの空気。いったい誰が醸造しているんだこんちくしょう。

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